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パンノニア

現在のハンガリー。ローマの属州となった後、5世紀にはフン人が移住し建国。6世紀にはアジア系アヴァール人が建国したが、8世紀にフランク王国カール大帝に制圧される。9世紀にマジャール人が移住し、さらに西進したが、955年、東フランク王オットー1世に敗れたためにこの地に後退し国家を建設。それが現在のハンガリー国家につながっている。

 現在のハンガリー共和国の一帯、ドナウ川の中流にひろがる盆地を古くからパンノニア平原という。紀元前33年ごろ、ローマに征服され、属州イリュリクムの一部であり、紀元後9年ごろ、分割されて一つの属州パンノニアとなった。

民族大移動

 4世紀後半にはゲルマン人の民族移動が始まり、その動きの中で、380年には東ゴート人とヴァンダル人のパンノニア移住がローマ帝国に認められた。ローマ帝国が東西に分裂すると、パンノニアは東ローマ帝国領となったが、5世紀にはアジア系のフン人がダキア(現在のルーマニア)を拠点にヨーロッパ各地に侵入を繰り返した。フン人の侵攻はローマにまで及んだが、425年に西ローマ帝国はフン人のパンノニア支配を認めたので、フン人はイタリアから撤退した。
フン帝国 445年、フン人はアッティラによって統一され、フン帝国として強大となり、黒海からライン河畔までを支配下に収め、447年には東ローマ皇帝テオドシウス2世から、ドナウ南岸、トラキア(バルカン半島東部)の割譲を受けた。さらにヨーロッパへの侵攻を続けたが、451年のカタラウヌムの戦いで敗れ、アッティラも453年に急死したため、その帝国は急速に瓦解した。
 フン帝国が弱体化したころ、パンノニアには一時ゲルマン人の東ゴートがフン人の支配から独立して定住し、489年まで続いた。しかし彼らはその後、イタリアに移動した。
アヴァール人の侵攻 東ゴート人の次にランゴバルド人が入ったが、彼らもまた西方に移動し、その後に入ったのがアヴァール人がである。彼らはゲルマン系ではなく、アジア系モンゴル人の遊牧民と考えられている。彼らはパンノニアに568年ごろに国家を形成し、パンノニアとその周辺のスラヴ人を服属させた。さらにアヴァール人はビザンツ帝国とフランク王国を脅かし、勢力圏を拡げていったが、626年のコンスタティノープル遠征失敗以後は、急速に力を弱めてった。それに乗じて、ボヘミア、モラヴィアなどのスラヴ人は622~623年にアヴァール人を撃退して自立し、スラヴ人最初の国家を成立させたが、658年にアヴァール人に滅ぼされてしまった。
 パンノニアのアヴァール国家はさらに存続していたが、8世紀になるとフランク王国の圧迫を受けるようになった。796年、フランク王国のカール大帝はフランク軍を東方に遠征させてアヴァール人を破り、アヴァール人はエンス川まで後退して勢力を大幅に弱め、9世紀にはマジャール人に吸収されてしまう。

マジャール人の定住

 9世紀には東方からマジャール人がこの地に移動してきた。マジャール人は、ウラル山脈西部で遊牧生活を送っていたウラル語系民族でアジア系ではない。彼らは10世紀になるとさらに西に移動し、東フランク王国の東辺を脅かした。東フランクのザクセン朝ハインリヒ1世は、それに備えて城塞都市を建設してマジャール人と戦った。

マジャール国家の形成

 955年に東フランク王国のオットー1世とのレヒフェルトの戦いに敗れて西進をあきらめ、この地に退いて定住し、1000年ハンガリー王国を建国した。
 パンノニアは平原であるために周辺からの外敵の侵攻を受けやすく、その後もモンゴル人の侵入、オスマン帝国の支配、オーストリア=ハプスブルク家の支配、オーストリア=ハンガリー帝国に併合、などの異民族支配が続き、ようやく第一次世界大戦後の1918年にハンガリーは独立した。なお、国名をハンガリーとするのは日本が英語表記に従っているからであり、かれら自身は「マジャール」を国名としている。 → 20世紀以降の現在のハンガリー共和国
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