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カール6世

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位1711~1740年)。1713年、プラグマティッシェ=ザンクティオン(家督相続法)を定め、娘のマリア=テレジアの家督相続の道を開いた。

 スペイン継承戦争で、フランスのルイ14世と戦ったオーストリア=ハプスブルク家は、領土を拡張し、隆盛に向かう中、カールが1711年に家督を相続し、神聖ローマ帝国皇帝に選出された。しかし、カール6世には男系相続者がおらず、当時のヨーロッパ大陸諸国の君主継承では女性の家督相続(それに伴う王位継承)が認められていなかったので、このままでは娘のマリア=テレジアに家督を相続さえることができないという問題に直面した。 → オーストリア

女子のハプスブルク家家督相続の道を開く

 そこで、1713年にカール6世は、プラグマティッシェ=ザンクティオン(国事詔書、家督相続法など訳される)を発布し、ハプスブルク家の領土の不可分と共に、男系がいない場合の女性の相続を認めることを定めた。これは当時の国際常識に反することであったので、カール6世は神聖ローマ帝国内の国王や諸侯にこの原則を認めるように働きかけ、様々な譲歩を図りながら、原則的な合意を取り付けることに成功した。
ポーランド継承戦争  カール6世の時代もブルボン朝フランスとのヨーロッパの覇権をめぐる戦いが続いた。1733年のポーランド継承戦争はポーランドの王位継承に介入したルイ15世に対し、ロシアと共に反対して戦った者で、名将マウリッツが派遣されたがフランス軍に敗れ、結果としてロレーヌを失うこととなった。

その死去と共にオーストリア継承戦争へ

 1740年、カール6世が死去し、同法に基づいてマリア=テレジアがハプスブルク家の家督を相続、オーストリア大公(妃)、ボヘミア女王、ハンガリー女王に即位した。神聖ローマ皇帝は女性であるため選出されなかった。
 このマリア=テレジアの家督相続に対し、プロイセン王国フリードリヒ2世はその承認の大小としてシュレジェンの割譲を要求、またバイエルン公カールは神聖ローマ皇帝への選出を狙い、異議を申し立てたため、オーストリア継承戦争となった。
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ノートの参照
9章1節 オ.プロイセンとオーストリア