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キュチュク=カイナルジ条約
(クチュク=カイナルジャ条約)

南下政策を進めたロシアが、エカチェリーナ2世の1774年、第1次ロシア=トルコ戦争の講和条約としてオスマン帝国から、ボスフォラス=ダーダネルス海峡両海峡通行権などを獲得した。

 キュチュク=カイナルジ Küçük Kaynarca は現在のブルガリアに属するドナウ川河口の地名でトルコ語。キュチュクはクチュク、カイナルジはカイナルジャとも表記する。ロシアは1696年のピョートル大帝アゾフ海進出以来、南下政策を強めて、黒海方面への進出を進めていたが、エカチェリーナ2世は1768年にオスマン帝国に戦争を仕掛け(第1次ロシア=トルコ戦争)、戦いを有利に進めて1774年、ブルガリアのキュチュク=カイナルジでロシアとオスマン帝国(トルコ)間にこの条約が締結された。主な内容は次のとおり。  これらは後のクリミア戦争でのロシアのオスマン帝国への介入の口実となり、いわゆる東方問題の始まりを意味していた。

キュチュク=カイナルジ条約の意義

  • オスマン帝国にとっては、ロシア皇帝によるオスマン帝国内におけるギリシア正教徒への保護権を認めてしまったこと、黒海の制海権を事実上放棄したことも重要であるが、最大の屈辱はクリム=ハン国に対する保護権を放棄したことである。同じトルコ系であり、イスラーム教国としてオスマン帝国に臣属していた国を見捨てたことは、オスマン帝国の権威をゆるがす出来事だった。
  • ロシア帝国にとっては、商船のボスポラス=ダーダネルス海峡の航行権、オスマン帝国内のギリシア正教徒保護権(本来はイスタンブルにおけるギリシア正教教会建設と正教徒保護の権利であったが、後に帝国全土に拡大された)を得たことが重要で、それによって内政への干渉を可能にした。
  • 一方、フランスは、ロシアに対抗して、オスマン帝国内のキリスト教徒保護権を主張した。すでに、ルイ14世の時にレバノンのマロン派キリスト教徒に対する保護権を得ていたが、それをまもなくオスマン帝国全土に拡大された。それまでオスマン帝国内の非ムスリム住民はジンミー(ズィンミー、被保護民)として保護され、ミッレトと呼ばれる宗教的自治体に組織されていたが、こうした民族と宗教の平和共存にもピリオドがうたれたのである。
<山内昌之『近代イスラームの挑戦』1996 中央公論社刊世界の歴史20 p.82>

その後の海峡問題

 1774年のキュチュク=カイナルジ条約でオスマン帝国がロシアの商船のボスフォラス=ダーダネルス海峡(両海峡)の通航を認めたことは、その地中海進出が可能になることなので、イギリス、フランスなどの西欧列強は反対した。列強間の取り引きが続き、1809年には軍艦の航行はすべての国を対象に禁止することで合意された。
 ところが、オスマン帝国に対するエジプトの太守ムハンマド=アリーの分離運動から第1次エジプト=トルコ戦争が1831年に始まるとオスマン帝国は敗れてしまった。そのため、ロシアの軍事支援を受ける必要が出たため、1833年にウンキャル=スケレッシ条約を結んで、ロシア艦船の海峡通過を認めた。
 1839年の第2次エジプト=トルコ戦争では、イギリスじゃエジプトの台頭を抑えるためオスマン帝国を支援したので、ムハンマド=アリーの勢力は抑えられた。次いで両海峡の航行問題での列強の利害の対立が明確になったためイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン・フランスの列強が5国海峡協定を締結して両海峡の通航禁止を再び禁止することで合意した。
 しかし、海峡問題は次第にロシア対英仏という対立関係をはっきりとさせることとなり、聖地管理権問題などと絡みながら、1856年のクリミア戦争へとつながって行く。
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