印刷 | 通常画面に戻る |

クリミア半島

黒海に突き出た半島で、15世紀以降、オスマン帝国の支配下にあったが、18世紀を通じロシアが進出し、クリミア戦争となった。ソ連成立後はソ連の統治下に入った後、第二次世界大戦後、ウクライナに領有権が移った。しかし2014年にロシア系住民がウクライナからの分離、ロシア併合を住民投票で決定、それ以降ロシアが実効支配している。

クリミア半島 Yahoo Map旧版

クリミア半島

2019年仕様変更以前の地図。ここではウクライナ領となっており国境線は半島の東側に引かれている。

クリミア半島は南ロシア平原から、黒海につきだした、三角形の半島。紀元前8世紀には、騎馬遊牧民のスキタイが活動し、次いでギリシア系のボスポロス王国が成立した。ローマ帝国の支配もこの地におよんだが、ゲルマン民族移動期にゴート族が入り、さらにフン人の移動の後、6~10世紀にはハザール=カガン国という遊牧国家がこの付近一帯を支配した。13世紀中ごろにモンゴル人が大遠征を行ってこの地方に侵入し、キプチャク=ハン国が建てられ、その領土となった。14世紀ごろからキプチャク=ハン国が弱体化する中で、15世紀にいくつかの地方政権が成立した。

クリム=ハン国

 キプチャク=ハン国が分解する中で、クリミア半島にはクリミア=タタール人クリム=ハン国を成立させた。キプチャク=ハン国はイスラーム化していたので、クリム=ハン国もイスラーム教を継承し、同じイスラーム教国のオスマン帝国の保護下に入り、その宗主権のもとにあった。

ロシアの南下

 一方、ロシアはかつてのタタールのくびきから脱してロシア人国家を成立させ、ロマノフ朝のもとで大国化の道を歩み始め、アジア系民族の支配する黒海北岸のウクライナを解放し、さらに黒海方面に進出することを悲願としていた。
 17世紀にピョートル1世のもとで南下政策を進め、1696年には黒海の北につながるアゾフを占領した。

第1次ロシア=トルコ戦争

 さらに、エカチェリーナ2世1768年、クリミア半島の領有をねらって、オスマン帝国に宣戦した。これを第1次ロシア=トルコ戦争といい、ロシアは陸上と海上でオスマン帝国軍を破り、1774年キュチュク=カイナルジャ条約で講和し、それによってクリム=ハン国の保護権を獲得した。
 しかし、クリム=ハン国のクリミア=タタール人は依然としてオスマン帝国のスルタンをカリフとして認め、それに従う姿勢を崩さなかった。そこでロシアのエカチェリーナ2世は将軍ポチョムキンを派遣して、1783年に強制的にクリム=ハン国を併合し、ロシア化をはかった。

第2次ロシア=トルコ戦争

 そのため多くのクリミア=タタール人がオスマン帝国に逃れ、その保護を求めた。オスマン帝国はクリミア半島及び黒海北岸からのロシア軍の撤退を要求、ロシアはそれを拒否して1787年、ロシア=トルコ戦争が再開された。これを第2次ロシア=トルコ戦争という。この戦争では、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を支援し、オーストリアがロシアを支持するという、東方問題という国際問題へと転化した。
 ロシア軍は陸軍を主体に戦い、イズマイル要塞を陥れ、イスタンブル(ロシア側はコンスタンチノープルと称した)に迫った。イギリスとスウェーデンが戦争から手を引いたため、孤立したオスマン帝国は1792年、講和に応じた。このヤッシーの和約で、オスマン帝国は正式にロシアのクリミア併合を認め、ドニエストル川とブグ川の間を割譲した。

クリミア戦争

 19世紀に入るとギリシアの独立や、エジプト=トルコ戦争など、オスマン帝国の弱体化が明らかになり、ヨーロッパ列強の眼が東方に注がれるようになった。それが東方問題といわれる不安定要素となった。ついにロシアのニコライ1世は、1853年に一気にイスタンブルから地中海方面への突破を狙い、オスマン帝国に宣戦し、クリミア戦争が勃発した。それを阻止するため、イギリス・フランス、さらにサルデーニャ王国が参加しオスマン帝国を支援、ロシア軍のセヴァストーポリ要塞に総攻撃をかけた。戦争は激戦となったが、装備の近代化が遅れていたロシア軍が敗北、1856年、パリ講和会議が開催され、講和条約としてパリ条約が締結された。この条約でオスマン帝国の領土が保全されると共に、ドナウ川の航行の自由、黒海中立化が確認され、その他ロシアの後退措置が執られてその南下の勢いはくじかれた。

用語リストへ 9章1節12章2節

 ◀Prev  Next▶ 



ソ連統治からウクライナ領へ

ソ連成立によりロシア共和国内の自治共和国となった。第二次世界大戦後の1954年、クリミア半島をウクライナの管轄に移した。ソ連崩壊後の1991年、ロシアはウクライナのクリミア半島領有を認めたが、多数を占めるロシア系住民は、2014年一方的に住民投票を実施してロシア編入を決定、ロシアのプーチン大統領が併合を宣言した。ウクライナは強く反発し、国際的な非難も持ち上がっている。

 ウクライナにもロシア革命の影響で1919年に社会主義政権が成立し、22年にロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともにソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)を構成することになった。クリミア半島には1921年、ロシア共和国内のクリミア自治共和国となったが、事実上ソ連の統治が続いた。

スターリンによるクリミア・タタール人の強制移住

 クリミアは第二次世界大戦中、ドイツ軍に二年半占領された。クリミア半島を再占領したソ連のスターリンは、クリミア・タタール人(かつてクリム=ハン国をつくっていた人々)を対独協力の嫌疑で全員約19万人余を中央アジアに強制移住させた。その移送途中や移送後に多数が死亡し、これはスターリンの暴挙の一つに数えられている。戦後の1967年に追放措置は解除され、多くがクリミアに帰還し、現在ではクリミアの人口の約1割を占めているが、もともとの先住民でありながら、すっかり少数民族になってしまった。<『ウクライナを知るための65章』2022 明石書店 p.68 黒川祐次執筆による>

ヤルタ会談

 1945年2月、第二次世界大戦後の世界史のあり方を規定することになった連合国首脳によるヤルタ会談が開催された。ヤルタはクリミア半島の先端にあり、ロシアで最も温暖な地であり、保養地として有名であった。ヤルタが選ばれた理由は、対独戦争に忙殺されるスターリンがソ連領を離れられないと英米首脳に申し入れ、病身のローズヴェルトに配慮し、温暖な地が選ばれた。
 会場となったロマノフ王家のリヴァディア離宮は、1860年代にロシア皇帝アレクサンドル2世がマリア皇后の健康のために建てたもので、小ぶりではあるがサンクト=ペテルブルクの宮殿とは違った清楚な趣のある白亜の宮殿であった。<黒川祐次『物語ウクライナの歴史』2002 中公新書 p.227>

ウクライナに編入

 第二次世界大戦後の1954年、ソ連のフルシチョフ第一書記の時に、クリミア半島はロシアからソ連を構成する一共和国であるウクライナ共和国に移管された。これはロシア人の多いクリミア半島をウクライナに移管させることで、ウクライナのロシア人比率を高めようとしたものであった。<黒川『同上』 p.240>

クリミア領有問題

 1991年12月、ソ連の解体に伴って、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ三国首脳が協議したベロべージ会談では、独立国家共同体(CIS)の結成と同時に国境の再確認が行われた。そのとき、ロシアはクリミア半島の領有を主張したが、ウクライナ共和国は1954年に移管されていることを根拠に領有の維持を主張、意見が対立した。もう一つの問題である核の保有を維持することを優先したロシアは、ウクライナの核保有を認めない代わりに、そのクリミア半島領有を認めた。そのため、ロシアはヤルタの保養地も、セヴァストーポリも失うことになり、黒海への出口をふさがれる格好となった。 → オレンジ革命とクリミア危機

ロシアのクリミア併合

 2014年3月、ロシアのプーチン大統領は、クリミア半島のロシアへの併合を宣言した。ウクライナ領であったクリミア半島内にはクリミア自治共和国とセヴァストーポリ特別市があったが、ロシアとこの二地域の自治政府の三者が条約を締結して併合が承認された、としている。ウクライナ共和国は当然それを認めず、19世紀的な力による併合は国際社会からも批判が多く、容認されていない。
 そのためロシアは先進国首脳会議(サミット)への参加を拒否された。ウクライナは独立国家共同体(CIS)から離脱した。ウクライナ及びアメリカ、EUなどはロシアに対する経済制裁に乗り出した。またNATOは対ロシアの戦争をも辞さない構えを強め、緊張がたかまった。しかし、ウクライナ側の奪回は困難で、時間の経過と共に事実上のクリミアはロシア領化している。プーチンにとってもロシア国内での高い支持の背景としてしているので、クリミア返還には応じる気配はない。
 クリミア併合に続いて、ウクライナ東部のロシア系住民の多い地域でもウクライナからの分離を要求して闘争を開始、ウクライナ東部紛争が起こった。こちらに対してはロシアは併合を表明せず、その分離独立を支援するとして事実上、軍事介入している。2020年7月、ウクライナ東部紛争は停戦が成立、戦闘行為は停止されているが、問題は解決していない。<2022/2/19記>

現在のグーグルマップにみるクリミア半島

冒頭のYahooMap(旧版)との違いに注目

2014年のプーチン=ロシアによるクリミア半島併合以降、事実上のロシア領化が進んでいる。インターネット上の地図を提供しているアップルとグーグルは、ロシアの要請を入れて、クリミア半島の北側のウクライナと間に境界線を引いた。グーグルマップで確認すると、北側に点線が引かれており、暫定的ながら国境線であることを示している。それだけでなく、クリミア半島の東側のロシア本土の間にある本来の国境線は消されている。
 このロシア寄りのすばやい対応に対してはウクライナ側は抗議をしているという。ヤフーマップを見ると、いまのところ新たな境界線は引かれていない(上掲のYahoo Mapは2019年の仕様変更前のもの。国境線の扱いは2021/1/3現在も同じ)。

ロシアのウクライナ侵攻

 ウクライナのNATO加盟への動きに反発したプーチン大統領のロシアは、かねてウクライナ侵攻の姿勢を見せていたが、アメリカが交渉に応じないことを見きわめ、2022年2月24日、ついにウクライナ侵攻を実行した。その狙いは、クリミア及びウクライナ東部のロシア実効支配をそのまま承認させることにあるとおもわれ、当初は限定的かという希望的観測もあったが、プーチンはウクライナ東部に留まらず、首都キエフの制圧も目指してウクライナ北方にもベラルーシから侵攻、全面的なウクライナ攻撃を展開している。侵攻から1週間、クリミア半島の地域紛争という範疇を超え、宣戦布告なき侵略戦争の様相を呈している。<2022/3/6記 途中稿>  → ロシアのウクライナ侵攻
印 刷
印刷画面へ