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真珠湾攻撃

1941年12月8日、日本軍がアメリカ海軍のハワイ真珠湾基地を奇襲し、太平洋戦争開戦となった。

 アメリカ合衆国は満州事変など中国大陸への侵出を進めつつあった日本軍の動きを警戒して、1932年にアメリカ艦隊の主力を本土基地からハワイの真珠湾(パールハーバー)へ移動させていた。太平洋のほぼ中央に位置し、日本に対する示威的・牽制的軍事基地として重要な位置を占めていた。
 1941年12月8日早朝、日本海軍の特別攻撃隊が真珠湾を奇襲、多大な被害をあたえた。日米両国は4月から日米交渉を続けていたが、東条英機内閣は11月末までの交渉で府庁で会ったことを受け、12月1日の御前会議で開戦を決定していたが、戦力的に不利な日本海軍が勝利を占めるには敵の不意を突く必要があり、緒戦の勝利によって早期の講和に持ち込みたいという考えで、攻撃は宣戦布告と同時に行うと予定された。実際には攻撃開始より1時間後に宣戦布告が届いたため、アメリカ側はこれを奇襲と受け取った。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトは日本のだまし討ちであるとして非難し、国民に「パールハーバーを忘れるな!」と呼びかけ、戦争意欲を高めた。なお、真珠湾攻撃の日付はハワイ時間では12月7日にあたっている。
 日本の宣戦布告を受け、アメリカもただちに宣戦布告、日米間の太平洋戦争(当時の日本は大東亜戦争と言った)が開始されただけでなく、12月11日はドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告、アメリカも両国に宣戦したので、これによってアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦することになった。

奇襲とその結果

 日本海軍の連合艦隊機動部隊は赤城以下6隻の空母から、第一陣が戦闘機(ゼロ戦)43機、爆撃機51機、魚雷攻撃機89機で行われ、真珠湾などに停泊中のアメリカ海軍の艦船を破壊し、約2000人の死者をさした。第2次攻撃隊も発進したが、敵の反撃が想定されたため引き返し、機動部隊の南雲忠一中将の指揮でそれ以上の深追いをせず攻撃を切り上げた。アメリカの空母エンタープライズは外洋におり、戦闘には間に合わなかったが生き残った。
 この奇襲成功は国民の愁眉を開いたとして歓迎され、日本中が勝利に沸いた。さらに翌42年春まで、香港マレーマニラシンガポール占領という勝利が続き、戦争の行方は楽観視されるようになったが、東南アジアから太平洋におよぶ広大な戦線を維持するための兵力や石油を始めとする物資の補給に次第に苦しむこととなる。

真珠湾の世界史的意義

 日本ではアメリカ・イギリスという欧米工業化の最高水準にある国家と対等な戦争に突入し、しかも緒戦の勝利を占めたことで、民族的自信や自尊の気風が強まった。しかし、第二次世界大戦の経緯から見れば、真珠湾奇襲の意味は、アメリカの第二次世界大戦参戦(しかも感情的な日本の奇襲に対する反感を持って)が実現した、という点にあった。ローズヴェルト大統領は、真珠湾奇襲の4ヶ月前の8月、すでにチャーチルとの間に大西洋憲章を出し、ファシズムとの戦いという戦争目的で合意していたが、国内の孤立主義に固執する人々や依然としてドイツよりもソ連を危険視する保守派も多く、参戦には踏み切れないでいた。ひそかにローズヴェルトとその閣僚は国民を納得させる参戦の機会を探していた。4月からの日米交渉も、日本に譲歩する考えはなく、追い込んで戦争に持ち込みたいのが本音であった。日本軍の真珠湾攻撃はこのようにアメリカに参戦の絶好の口実をあたえたことになる。アメリカの参戦を心待ちにしていたチャーチルは、日本軍の真珠湾攻撃の知らせを聞いて「これで勝てる!」と確信し、その夜はぐっすりと眠れたと『第二次世界大戦回顧録』に書いている。
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ノートの参照
第15章5節 ウ.独ソ戦と太平洋戦争