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ロック

17世紀後半、イギリスの思想家。『統治二論』などで社会契約説にもとずき名誉革命を擁護、立憲君主政の理論を打ち立てる。

17世紀後半、名誉革命期のイギリスの哲学者、政治思想家。オックスフォード大学で学ぶ。王政復古の時期にジェームズ2世の王位継承に反対したため、オランダに亡命した。名誉革命後の1689年に帰国し、活発な諸作を展開、『人間悟性論』ではイギリス経験論哲学をさらに深め、『統治二論』(市民政府二論とも)では社会契約説にもとづく市民社会の政治原則として、人民の抵抗権・革命権を唱えた。その理念は、名誉革命を擁護するものであった。そして、その思想は、後のアメリカ独立宣言、フランス革命のフランス人権宣言の理念に強い影響を与えた。

革命と共に歩む

 ロックは1633年、ブリストルにちかい小村のジェントルマンの家に生まれ、父はピューリタンの法律家で革命にも参加した。ジョンはオックスフォード大学で古典やスコラ哲学を学び、さらに医学や科学に関心を寄せ、科学者ボイルとも親交を結んだ。1666年、ホイッグ党の中心人物シャフツベリーの侍医兼秘書となり、かたわらデカルト哲学を知り、実験を行い、1668年には王立協会の会員となった。シャフツベリーはその後大法官となったが、チャールズ2世の専制に反対してオランダに亡命、ロックも身の危険を感じてオランダに逃れた。1689年、イギリス国王となるメアリに同船してイギリスに戻り、1690年に「わが国の偉大な再興者である現王ウィリアムの玉座を確立し、王の正統性を人民の同意のうちに基礎づけること」を目的に『統治二論』を刊行した。

Episode 内村鑑三の『後世への最大遺物』から

(引用)イギリスに今からして二百年前に痩っこけて丈(たけ)の低いしじゅう病身な一人の学者がおった。それでこの人は世の中の人に知られないで、何も用のない者と思われて、しじゅう貧乏して裏店のようなところに住まって・・・何もできないような人であったが、しかし彼は一つの大思想を持っていた人でありました。その思想というのは人間というものは非常な価値のあるものである、また一個人というものは国家よりも大切なものである、という大思想を持っていた人であります。それで17世紀の中ごろにおいてはその説は社会にまったく容れられなかった。その時分にはヨーロッパでは主義は国家主義と定まっておった。イタリアなり、イギリスなり、フランスなり、ドイツなり、みな国家的精神を養わなければならぬとて、社会はあげて国家という団体に思想を傾けておった時でごさいました。その時に当ってどのような権力のある人であろうとも、彼の信ずるところの、個人は国家より大切であるという考えを世の中にいくら発表しても、実行できないことはわかりきっておった。そこでこの学者は私(ひそ)かに裏店に引っ込んで本を書いた。この人は、ご存じでありましょう。ジョン・ロックであります。その本は"Human Understanding"(『人間悟性論』)であります。しかるにこの本がフランスに往きまして、ルソーが読んだ、モンテスキューが読んだ、ミラボーが読んだ、そうしてその思想がフランス全国に行きわたって、ついに1790年(ママ)フランスの大革命が起ってきまして、フランスの二千八百万の国民を動かした。・・・それから合衆国が生まれた。それからフランスの共和国が生まれた。それからハンガリアの改革があった。それからイタリアの独立がった。実にジョン・ロックがヨーロッパの改革に及ぼした栄光は非常にあります。・・・<内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』1946 岩波文庫 p.43-44>
 この文は、内村鑑三が、明治27年(1894)に講演した『後世への最大遺物』の一節である。

統治二論

1690年、イギリスの名誉革命直後に出版されたロックの主著。

ジョン=ロックの著作で、フィルマーの王権神授説を批判した一編と、市民政府を論じた一編からなる。特に後者においてロックは、個人は相互に同意して自然権の一部を政府に委託して国家を作っているのであり、国家は人民の生命・財産・自由といった自然権を守る目的を持ち、その主権は人民にある。政府が人民の自然権を侵害することがあれば、人民には政府に抵抗し、それを覆す権利がある、と主張した。ホッブズの社会契約説を覆したロックの社会契約説は近代市民社会の原理となった。
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ノートの参照
9章3節 ア.科学革命と近代的世界観
書籍案内

ジョン・ロック/加藤節訳
『統治二論』
岩波文庫

内村鑑三
『後世への最大遺物・デンマルク国の話』
1946 岩波文庫