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ヴァルミーの戦い

1792年9月20日、フランス革命軍がオーストリア・プロイセン同盟軍を破った戦い。

フランス革命が進行する中、1792年4月のジロンド派内閣が対オーストリア開戦に踏み切り、フランス革命軍とオーストリアの戦争が始まり、7月にはプロイセンがオーストリアとの連合軍として加わった。フランス軍はラ=ファイエットらが司令官となって戦ったが、旧来の貴族を主体とした指揮官に率いられた軍隊は戦意に乏しく、また準備も十分でなかったため、各地で敗北した。さらに国王やマリ=アントワネットは密かに情報を敵側に知らせていた。議会は「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を行い、パリでは全国から義勇兵が集まった。
 密かにマリ=アントワネットの要請を受けたプロイセン軍のブラウンシュヴァイク公は8月1日、声明を出し、ルイ19世に少しでも危害が加えられれば、パリを全面的に破壊する、と脅した。憤激したパリでは、国王に対する非難が強まり、8月10日事件が起き、立法議会は王権を停止した上で解散し、代わって男子普通選挙による国民公会が開設されることになった。またこの日、フランス軍の司令官ラ=ファイエットはオーストリアに亡命をはかったが、捕らえられて捕虜となった。9月にはプロイセン軍がヴェルダンを陥落させ、パリに迫ったため、パニックが起こり9月虐殺という革命派の市民による反革命派に対する虐殺事件が起きた。

フランス軍の勝因

 9月20日、フランス東北部の小村ヴァルミーでプロイセン軍3万4千、さらにオーストリア軍3万とフランスの亡命貴族の率いる5千~1万の軍と、フランス革命軍が退陣した。フランス軍はジロンド派のデュムーリェとケレルマンの指揮する5万。そのほとんどはサンキュロットなどの寄せ集めて装備も訓練も不十分であったが、戦意だけは高かった。指揮官ケレルマンは帽子を剣の先にかざし、「国民万歳」と叫び、高らかにラ=マルセイエーズを歌った。砲兵隊が必死にプロイセン軍の進撃を食い止めるうちに、土砂降りの雨となり、ブラウンシュヴァイク公は退却命令を出した。プロイセン軍の敗因は、フランス法兵隊の活躍、悪天候、赤痢の流行という健康状態の悪化、食糧と水の不足、フランス農民のゲリラ的抵抗などが挙げられている。いずれにせよ、パリ陥落は間違いないと見ていたヨーロッパの人たちを驚かすこととなった。思いがけないプロイセン軍の敗北に、ブラウンシュヴァイク将軍が買収されたのではないか、などの噂が立った。<芝生瑞和『図説フランス革命』1989 河出書房新社 p.106>

ヴァルミーの勝利の意義

 ドイツの文豪として知られるゲーテ「この日ここから、世界史の新しい時代が始まった」 と日記に記したとされている。この日は、国民公会に選出された議員が第1回会合を開いた日でもあり、フランス革命を外国の干渉から守り、共和政を実現させる記念すべき勝利となった。
 ヴァルミーの戦いは戦局を一変させた。ヴァルミーの勝利をうけて、1792年11月18日には、ベルギー領のジェマップの戦いではデュムーリェの指揮する4万のフランス軍はオーストリア軍を打ち破り、ベルギーから撤退させた。「ラ=マルセイエーズ」を高唱しながら、津波のように進撃するサンキュロットの「人民戦争」は、これまでの戦争観をくつがえすにたるものであった。<河野健二『フランス革命小史』1959 岩波新書 p.138>
 イギリスのピットはフランスがさらにオランダに進出することを警戒し、ルイ16世処刑を口実に、対仏大同盟(第1回)の結成を呼びかけ、フランス向けの輸出を停止した。1793年2月、国民公会はイギリス・オランダ、3月にスペインに対して宣戦布告、ほぼ全ヨーロッパと戦うこととなった。なお、ヴァルミーの戦いに敗れたプロイセンは、ロシアのエカチェリーナ2世に対し、対仏戦争を継続する代償として、第2回ポーランド分割を要求し、1793年にそれを実現した。

Episode 疑わしいゲーテの言葉

 ゲーテがヴァルミーの戦いでのフランス国民軍の勝利を感動を以てて賞賛した、という通説は疑問が提出されている。
(引用)ゲーテはザクセン=ワイマール公カール=アウグストに随行して、反革命連合軍の陣中にあった。まず、ゲーテはフランス革命に一貫して懐疑的であったし、なによりも反革命軍の一員として参戦している。彼自身の『滞仏陣中記』(1820~22)をみても彼がこの戦いに感動したという形跡はどこにも見あたらない。……かれは醒めた保守主義者であり、およそ「革命精神に感動」する素朴さとはほど遠い人物なのである。<川北 稔他『世界の歴史』21>
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第11章3節 ウ.戦争と共和政