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ワラキア

現在のルーマニア南部にあった公国。オスマン帝国を宗主国とし、15世紀には一時抵抗。19世紀にはロシアの支配を受けてた。同じラテン系民族ルーマニア人のモルダヴィア公国と統一国家ルーマニア公国をつくる。

ワラキア地図

ワラキアのおよその位置
赤い色は現在の国名・国境 YahooMap で作成

 ワラキアは現在のルーマニア南部、トランスシルヴァニア山脈とドナウ川にはさまれた盆地。ローマ時代には属州ダキアの一部となり、先住民とローマ人の混血が進みラテン系言語社会が形成された。
 中世ではハンガリーの支配を受けていたが、1330年にワラキア公国が自立した。ワラキアの北方には同じルーマニア人が、モルダヴィア公国を作り、「ドナウ二公国」と言われた。なお、同じバルカン半島のトラキア(現在のブルガリア南部、ローマ時代のスパルタクスの出身地)と混同しないようにしよう。

オスマン帝国の支配

 トラキアには北西のトランシルヴァニア地方に進出したハンガリー王国の脅威が常に存在していたが、しかし14世紀末になると、南方からバルカン半島を北上したオスマン帝国の侵攻を受けることとなった。1395年、バヤジット1世がドナウ川を越えてトラキアに侵攻し、その宗主権の下に入った。ただし、トラキアに対しては、オスマン帝国は直轄領とはせずに貢納を条件として公国として自治を認めた。次にオスマン帝国に征服されたモルダヴィアとともに、ギリシア人エリート層(ファナリオテスという)が公(ホスポダール)に任命されて統治を行った。

ヴラッド串刺し公の活躍

 オスマン帝国はメフメト2世の時、1453年にコンスタンティノープルを占領、ビザンツ帝国を滅ぼし、15世紀後半にバルカン支配を強化した。ワラキアに対しては貢納額の引き上げとモラヴィア、トランシルヴァニアへの進行の協力を強要してきた。それに対してワラキア公ヴラッド=ツェペシュ(在位1448…1476)は抵抗を決意し、1462年6月、オスマン軍が近づくと機先を制してドナウ川を渡って夜襲をかけ、大勝利を収めた。しかし、ワラキア公は土地貴族に対しては厳しく当たり、串刺公として恐れられていたので、抵抗路線に反対してオスマン帝国に従う弟ラドゥ美男公を立てたので、彼はトランシルヴァニアに逃れ、そこでハンガリー王に捕らえられてしまった。後に1476年にオスマン軍が迫るとハンガリー王マチャーシュはヴラッド=ツェペシュを釈放、して再び対オスマン軍の戦闘を指揮させたが、最後は刺客に襲われて死んだ。
 串刺公と言われたヴラッド=ツェペシュ公の作戦とはどんなものだったのか。当時のワラキアの首都トゥルゴヴィシテに迫るメフメト2世の派遣したオスマン帝国軍の前でこういう場面があった。
(引用)トゥルゴヴィシテを去る数キロの地点の、トルコ軍(引用者注オスマン帝国軍)の行進を予想した場所にツェペシュは特別の見せ物を用意していた。長さ1キロ、幅3キロの広大は平野に2万人のトルコ人を串刺し状態にして並べたてた。烏や禿鷹が死体に群がっていた。“これはトルコ兵や皇帝に対する見せ物だった。トルコ兵たちはぞっとする光景に恐れ戦いた”<ニコラエ・ストイチェスク/鈴木四郎・学訳『ドラキュラ伯爵―ルーマニアにおける正しい史伝』1976 中公文庫刊 1988 p.155>
 同じころ、モラヴィアにはシュテファン大公(3世)が同じようにオスマン帝国に対する抵抗を続けていた。そのため、ワラキアとモラヴィアは結局オスマン帝国に併合されることはなかったが、宗主国として従属する状態が続いた。16世紀末にはワラキア公国にミハイ勇敢公が出て一時自立して、モルダヴィア、トランシルヴァニアを合わせて支配した時期もあるが、基本的にはオスマン帝国を宗主国とする状態が続いた。

Episode 吸血鬼ドラキュラのモデル

 ワラキア公国のヴラッド串刺公は、オスマン軍の侵入と戦った英雄として西ヨーロッパまで知られた人物であった。串刺公というのは、彼が反抗的な土地貴族や戦争での捕虜や裏切り者を見せしめのために串刺しの刑にしたからであった。オスマン軍との戦場でも、捕らえたオスマン軍の兵士の胴体に杭を打ち込み、それを立ち並べて見せしめに史、敵を震え上がらせたという。このような残虐な手法は当時でも異様なことで、周辺のポーランドやハンガリーでも恐れられ、またヴェネツィアの使節などを通じてキリスト教世界にも知られていが、しかし異教徒からキリスト教世界を守った英雄としての評価が強かったようだ。
 一方でルーマニアには吸血鬼の伝説があったようだが、本来は吸血鬼伝説とヴラッド串刺王とは関係がなかった。ところが、19世紀にアイルランドの作家ブラム=ストーカーがバルカン半島に残る吸血鬼伝説と実在のヴラッド串刺王を結びつけて「吸血鬼ドラキュラ」を創作した。ヴラッド=ツェペシュの父がドラクラ公と呼ばれていたことが根拠とされたようだ。この怪奇小説は大反響を呼び、吸血鬼は実在した、と捉えられるようになったという。最近でももっともらしく語られ、ルーマニアに残るヴラッド=ツェペシュの居城跡は「ドラキュラの城」として観光地化しているという。<ニコラエ・ストイチェスク/鈴木四郎・学訳『ドラキュラ伯爵―ルーマニアにおける正しい史伝』1976 中公文庫刊 1988>

ロシアの南下

 19世紀にはいると南下政策を強めたロシアが、1828年からオスマン帝国との戦争を開始、ワラキアとモルダヴィア(ドナウ二公国)はその軍事占領下に置かれた。これによってオスマン帝国は宗主権は保持したものの、300年にわたった統治は事実上終わりを告げ、ロシアによる保護国となった。
モルダヴィアとの統一運動 19世紀前半のウィーン体制下でヨーロッパ各地で盛んになった自由主義・民族主義は、ワラキア・モルダヴィアにも及んできた。地主などの知識層がパリやベルリン、ウィーンなどに留学し、新しい思想の影響を受け、帰郷してから新聞を発行して自由と民族の独立を訴えるようになった。特に、ワラキアとモルダヴィアの統一を求めるグループは新聞『ルーマニア』を発行して、トランシルヴァニアのルーマニア人にも統一を呼びかけるようになった。1848年革命の「諸国民の春」はトラキアにも及び、賦役農民の解放とモルダヴィアとの統一を掲げて立ち上がったが、それに対してロシア帝国とオスマン帝国は共同で鎮圧に当たり、運動は鎮圧されてしまった。
クリミア戦争 トラキアとモルダヴィアの独立と統一の好機は、ロシア帝国とオスマン帝国が対立して、1853年に始まったクリミア戦争によっておとずれた。1848年の革命を指導したが、失敗してパリに亡命していたワラキア人のバルチェスクは「ルーマニア民族宣伝委員会」を組織して国際的にルーマニアの独立と統一を訴えていたので、ルーマニア問題も取り上げられ、1856年に締結されたパリ条約によって、ロシアの保護国体制の廃止、オスマン帝国の宗主権下にあることをヨーロッパ列強が集団で保障することが盛り込まれてモルダヴィアと共に自治が認められた。

ルーマニア統一の実現

 ワラキアとモルダヴィアに暫定議会が開設され、その議員選挙ではワラキアとモルダヴィアの統一を求める勢力が大勢を占めた。1859年には二公国が同一の公としてクザ公を指名、事実上の統一をはたし、1861年11月にオスマン帝国が勅令でそれを承認、統一政府・統一議会をもち、二公国は最終的に統一してルーマニア公国が成立した。
 しかし、クザ公が自由主義的な改革を進めることに反対する勢力も根強く、国内対立が深まり、1866年にクザ公は退位に追いこまれ、プロイセンのホーエンツォレルン家のカール(ルーマニア名カロル)を公として迎え、31年のベルギー憲法をモデルにした憲法を制定した。このルーマニア「公国」がオスマン帝国から正式に独立を達成するのは、1878年のベルリン条約によってである。 → 現在のルーマニア
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書籍案内

ニコラエ・ストイチェスク
鈴木四郎・学訳
『ドラキュラ伯爵―ルーマニアにおける正しい史伝』
初刊 1976
1988 中公文庫刊

真面目な歴史書。数少ない中世ルーマニアとヴラッド公についての情報源。