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独墺同盟

1879年に、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国間で、ロシアを牽制するため結ばれた軍事同盟。1882年にイタリアが加わり三国同盟となる。ビスマルク外交の一環。

 かつて1866年に普墺戦争を戦った両国であるドイツとオーストリアと同盟を結ぶという、大きな転換がもたらされたのがこの条約である。ドイツ・オーストリアが提携した経緯は次のようなものがある。ドイツ帝国ビスマルクがフランスを抑えるためにオーストリア=ハンガリー帝国とロシア帝国との三国で三帝同盟(1873年)を結成した。この同盟はフランスの第三共和政に対して、その自由主義や共和政思想が東方に浸透しないように、君主政を維持しようという精神的な意味合いが強かったが、オーストリアとロシアがバルカン問題で対立、1877年の露土戦争によってロシアがバルカンに大きく勢力を伸ばしたことに反発したオーストリアがイギリスと共にベルリン会議でロシアに圧力をかけた。このため、ベルリン条約によってロシアのバルカン進出は抑えられた。反発したロシアは、1879年、三帝同盟から離脱し、フランスに接近する動きを示した。そのため、ビスマルクは改めてオーストリアとの提携を強める必要から、同1879年、独墺同盟を締結した。内容は次の2点を骨子とする秘密軍事同盟であった。
  1. いずれか一方がロシアから攻撃された場合に両国は全面的に支援し合うこと。
  2. ロシア以外の第三国(フランス)から攻撃された場合には他の一国は好意的中立を守ること。

独墺伊の三国同盟に発展

 この両国の軍事同盟は、1882年イタリアが加わり、三国同盟に発展した。しかし、ビスマルクはロシアとの同盟をあきらめず、その前年の1881年にはオーストリアを誘ってロシアとの新三帝同盟を結んでいた。この新三帝同盟が結局オーストリアとロシアの対立のため1887年に消滅すると、それに代わるロシアとの安全保障のために、同1887年、再保障条約を締結した。これは三国同盟と矛盾するので、秘密条約とされた。
 しかし、1890年、新帝ヴィルヘルム2世によってビスマルクは辞任し、独露再保障条約は延長が否定され、ドイツとロシアの対立は明確となっていく。
 この三国同盟に継承されたドイツとオーストリアの秘密軍事同盟は、1914年のサライェヴォ事件でオーストリアがロシアと宣戦布告したことによって効力を発揮し、ドイツはオーストリアを支援してロシアとの開戦に踏み切り、第一次世界大戦へと突入していくこととなる。
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