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新軍/新建陸軍

日清戦争後の1895年、清朝が新たに編成した西洋式陸軍。新建陸軍の略称が新軍。1911年、湖北新軍の武昌蜂起が辛亥革命の口火を切った。

 日清戦争で清朝の軍事力となったのは、李鴻章(直隷総督・北洋大臣)の指揮下にある北洋軍(陸軍は淮軍、海軍は北洋艦隊を主体としていた)であったが、いずれも李鴻章私的な軍隊という性格の強く、編成、装備、訓練のいずれにおいても日本軍に劣っていたことが明白であった。その劣勢が明確になると、清朝政府は急きょ、李鴻章が雇用していたドイツ人陸軍将校ハンネケンの建議により、ドイツ式の近代的陸軍の訓練を、天津と大沽の小站において開始した。しかし、急ごしらえの部隊は戦闘に間に合わず、清朝政府は講和に踏み切った。

袁世凱による新軍の創設

 日清戦争後、1895年に袁世凱がハンネケン指導の西洋式陸軍を引き継いで、新建陸軍を編成した。旧式の淮軍なども残っていたが、袁世凱統率下の約7千名の新建陸軍は、近代的な武装と訓練で清朝を支える軍事力となった。
 義和団事件後の1901年、清朝の西太后はようやく近代化政策に着手、光緒新政といわれる改革が行われ、その第一に新軍の建設による軍隊の近代化が掲げられた。新軍は直隷総督兼北洋大臣の袁世凱が統率した「北洋新軍」や、同じく湖広総督であった張之洞が創設したのを「南洋新軍」があったが、北洋新軍は約7万の兵力からなる8師団が編成され、その軍事集団の首領となった袁世凱は最大の実力者になった。各地で編成が進んだ新軍では、将校には日本の士官学校などに留学して訓練を受けたものが着任するようになった。
武昌蜂起 各省で編成された新軍の兵士となったものの中には、清朝政府の統治の混乱や腐敗に批判的なものも現れ、1911年10月10日、四川暴動を命じられた湖北省武漢駐屯の新軍は、満州人支配の打倒を掲げて蜂起した。この武昌蜂起が全国に波及し、辛亥革命へと拡大していった。
軍閥の抗争へ 中華民国成立後、新軍は政府軍の編成に組み込まれていったが、革命の主導権が北京の袁世凱によってにぎられるに伴い、彼の麾下の北洋新軍は、北洋軍閥といわれるようになる。北洋軍閥は袁世凱の死後、直隷派、安徽派などの軍閥に分裂・抗争していく。
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第14章3節 エ.辛亥革命