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西太后

清朝末期の皇后として実権を振るい、戊戌政変で改革派を弾圧した。

清朝の咸豊帝の妃で、その死後、わが子同治帝と甥の光緒帝の二代にわたり皇太后として実権を振るった女性。その支配は1861年から亡くなる1908年までの約50年におよび、清朝末期の宮廷、紫禁城の主として隠然たる権勢を誇った。

西太后の時代

・同治の中興 まず咸豊帝没後にわが子同治帝が皇帝となることによってその「垂簾聴政」(幼少の皇帝に代わり御簾の裏で政治を執る)を行い、はじめは曽国藩李鴻章ら漢人官僚による洋務運動を支持し、同治の中興といわれる安定期をもたらした。同治帝が17歳になり親政を開始した1873年にはいったん垂簾聴政を終えたが、翌年急死したため、4歳の甥の光緒帝を立て、再び垂簾聴政を開始した。
・あいつぐ戦争 次第に権力を独占するようになったが、この間イリ事件など「辺境の危機」が続き、1884年にはベトナムの宗主権をめぐって清仏戦争が起こり、その後は洋務派も退けた。1889年光緒帝が親政を開始し、西太后は離宮の頤和園に引退したが、光緒帝が次第に改革を進めようと「帝派」を形成すると、「后派」といわれる勢力を率いて皇帝を牽制するようになり、日清戦争には開戦に反対した。
・戊戌の変法 日清戦争の敗北後、日本に続きロシア、フランス、ドイツ、イギリスによる中国分割が進む中で、康有為・梁啓超ら革新派の若手官僚が光緒帝のもとに結集し1898年に戊戌の変法(百日維新)を断行すると、西太后は宮中保守派を動員してクーデターを行って光緒帝を幽閉、改革派を弾圧した(戊戌の政変)。
・光緒新政 その後の10年は独裁的な権力を握ったが、1900年の義和団事件でははじめ排外主義の義和団を支持して諸外国に宣戦布告したが、8ヵ国連合軍に北京を攻撃されると、宮廷ごと西安に逃れた。講和成立後北京に戻った西太后は一転して西洋文明の導入に努め、立憲制度の導入による清朝の延命を策した(1901年からの光緒新政)。彼女自らも西洋趣味を楽しんだが、宮廷の奢侈をよそに清朝の衰退は急速に進み、日露戦争で清朝の故郷が戦場となるのにまかせる他はなかった。西太后は、1908年幽閉していた光緒帝の死の翌日、息を引き取った。

Episode 西太后の実像

 西太后は中国の映画『西太后』1985 などによって、競争相手の后の手足を切断して「生きダルマ」にした、などの残忍な女性というイメージが強いが、この話はフィクションである。それに近いこととしては、義和団事変で北京を脱出するとき、云うことを聞かなかった光緒帝の妃の一人珍妃を宦官に命じて井戸に放り込んだ、ということがある。相当気性は激しかったようだ。珍妃を井戸に投げ込んだ話や、食事のたびに百種以上の料理を出させ、毎回宦官の一人をささいなことでむち打ちの刑にし、その悲鳴を聞きながら食べていた、などという話が『最後の宦官小徳張』<張仲忱、朝日選書 1991>に見えている。西太后の実像に迫り、その統治に現代中国の原点を見いだしているのが『西太后』である。<加藤徹『西太后』中公新書 2005>
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ノートの参照
第13章3節 ウ.国内動乱と近代化の始動
書籍案内

加藤徹
『西太后』
中公新書 2005
最後の宦官 表紙
張仲忱/岩井茂樹訳
『最後の宦官 小徳張』
朝日選書 1991