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北洋軍/北洋軍閥

清朝末期、袁世凱が組織した新軍を中心とした軍隊。中華民国成立後は軍閥の最大勢力となり北京政府を支える。袁世凱死後は直隷派と安徽派に分裂。

「北洋」・「南洋」の意味

 清朝末期に中国の海岸部を二分し、奉天・直隷(現在の河北)・山東の三省を「北洋」とし、浙江省以南を「南洋」とした。これは外交・通商上の地域区分に過ぎなかったが、「北洋大臣」が置かれ、さらに「北洋艦隊」・「北洋軍」が編成されたりしたことでて重要な意味を持つようになった。中華民国時代には「北洋」は広く「華北」と同様な意味に使われるようになり、「北洋軍閥」という言い方も生まれた。なお、南洋華僑の「南洋」は北洋に対する南洋を意味していた。
北洋大臣 清末の1870年に置かれた官職で、正式には「北洋通商大臣」。それまでの牛荘・天津・芝罘(ちーふー)の三港を管轄していた三口通商大臣が廃止され、直隷総督がその職務を兼ねることとなった。同時にそれまでの欽差大臣の権限も与えられた。さらに1888年に編成された北洋艦隊も管轄下に置くようになった。つまり、直隷総督兼北洋大臣とは、いわば東京都知事兼外務大臣兼通商大臣兼海軍大臣のようなもので、管轄は華北に限定されるものの、実質的には身長の最高実力者の地位を意味していた。1870年の設置以来、1895年までの25年間、その地位を独占したのが李鴻章であった。

北洋軍

 清朝末期の清国軍の主力となったのは、本来の八旗・緑営ではなく、漢人官僚の編成した私兵集団である郷勇から成長した軍隊であり、その中で最も有力だったのが、李鴻章淮軍(わいぐん)を母体とした北洋軍であった。これは、同じく李鴻章の支配下にあった北洋艦隊に対して北洋陸軍とも言われた。しかし、北洋軍も、李鴻章の私兵という性格が強く、近代的な国民軍ではなかったので、日本との日清戦争では日本軍の侵攻を持ちこたえられなかった。

北洋軍閥

 日清戦争に敗れた清朝は、近代的な陸軍の創設が急務であると意識されるようになり、1895年、新建陸軍(新軍)の編成に乗り出した。その中心となったのは李鴻章の配下にあった袁世凱であった。新軍は1900年の義和団事件後、各省で作られるようになったが、中心の北京では袁世凱が北洋大臣となったため、その輩下にある新軍は「北洋新軍」と言われるようになった。
 地方の新軍の中には、湖北省の新軍のように清朝打倒に立ち上がった部隊もあり、彼らの1911年の武昌蜂起から辛亥革命が燃え上がることになり、清朝は滅亡した。しかし、中華民国の実権を握った袁世凱は、北洋新軍を武力基盤として勢力を拡張し、それを支える北洋軍は「北洋軍閥」といわれるようになった。
北洋軍閥の分裂 北洋軍閥は、中華民国初期の代表的な軍閥であり、1916年に袁世凱が没すると、その後継を巡って、安徽派直隷派に分裂、その他に非北洋系の奉天派などのいくつもの軍閥が北京の政権をめぐって抗争するようになる。このような北京の軍閥政府の抗争は、日本の大陸侵略を容易にした。また、広東を拠点とした国民党の孫文が、軍閥政府の打倒を掲げて広東軍政府を組織し、北伐を目指すこととなる。孫文は1924年に国共合作(第1次)を成立させ、中国統一に乗り出すが、北伐を実現する前に急逝し、その意図は蒋介石に継承され、1926年に北伐が開始され、途中、国教の分裂があったが、28年に北京軍閥政府は倒され、中国統一が一応出来上がった。
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ノートの参照
第14章3節 エ.辛亥革命