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フランスの降伏

1940年6月、ドイツ軍によってパリが占領されフランスは降伏した。北部をドイツ軍に占領され、ドイツに協力するヴィシー政府が成立。それに対するレジスタンスが開始され、ド=ゴールはロンドンから抵抗を呼びかけた。

 ヒトラーのナチス=ドイツがポーランド侵攻を実行するとフランスはただちにドイツに宣戦布告をした。こうして第二次世界大戦が始まったが、イギリス軍・フランス軍はドイツを攻撃することなく、しばらくは戦火を交えることは無かった。ところが、1940年5月10日のドイツ軍のオランダ・ベルギー侵攻という「青天のへきれき」から、イギリス軍のダンケルク撤退に続き、わずか1ヶ月後の6月14日に首都パリが陥落した。これによってフランス第三共和政は崩壊した。イタリアはこの情勢を見て6月10日に参戦し、フランス国境に進攻し、国境地帯を占領した。またアジアでは日本が援蔣ルートの遮断を目的に9月に北部仏印進駐を実行し、アメリカ・イギリスとの対立を深刻にさせることとなり、日独伊三国同盟の結成へと動き、1941年12月に太平洋戦争が勃発、アメリカが参戦して全面的世界大戦となった。

ヴィシー政府の成立

 6月22日に休戦協定が締結され、フランスはドイツ国境に接した併合地区と、北部の占領地区、南部の自由地区の三分された。7月10日、自由地区のヴィシーにフランス政府が成立、第一次世界大戦の英雄であった84歳のペタン将軍を国家主席として迎えた。このヴィシー政府には、人民戦線に反対した右派、親ナチ派が参加し、大統領制や議会は廃止された。ヴィシー政府はフランスの正当な権力としてイギリスを除く各国の承認を得たが、ペタン主席はヒトラー・ドイツへの協力を表明し、独立性は弱く、ドイツに従属する政府として存在できた。1942年11月、連合軍の反撃が開始され、北アフリカに上陸すると、ドイツは自由地区あわせてフランス全土を占領した。イタリアはマルセイユまでのフランス東南部とコルシカ島を占領した。

レジスタンス

 フランスは降伏し、親ドイツ政権のヴィシー政府が成立したが、それに対する抵抗運動が次第に激しくなっていった。これらのレジスタンス(抵抗運動)は当初はバラバラであったが、次第に国内ではフランス共産党が組織化し、国外ではロンドンに亡命したド=ゴールが組織した自由フランスがアフリカでドイツ軍に勝利を収めるなど、力をつけていった。国内と海外でのレジスタンスが統合され、44年6月2日にはド=ゴールを首班とする共和国臨時政府が成立し、8月25日にパリが解放された。

Episode マルク=ブロックの『奇妙な敗北』

 このフランスの予想外の敗北について、当時燃料担当の将校として従軍していた歴史家マルク=ブロックは、後の抵抗運動の間に著した『奇妙な敗北』と言う書物でこう結論している。
(引用)最後まで今度の戦争は老人と、さかさまに理解した歴史の誤謬に首をつっこんだ石頭の優等生の戦争だった。世界は新たなものを愛する人々のものだ。わが司令部はこの新なものに遭遇すると、それに備えることができず、敗戦のうき目にあう以外の途はなかった。ちょうど脂肪ぶとりで鈍重になったボクサーが、思わざる初撃をくらって狼狽するように、司令部は敗戦を受けた。<マルク=ブロック『奇妙な敗北』1970 井上幸治訳 東大出版会UP選書 下掲書 p.156>
 フランス軍の敗北は、具体的に言うと、ドイツ軍の機動戦車部隊の急襲と急降下爆撃機による空爆に対して、フランス軍は第1次大戦と同じ塹壕戦による防衛という古い戦術しかとらなかったところに原因があった。またマルク=ブロックは、司令官の無能や、参謀と部隊指揮官の対立(軍隊官僚制の欠陥)、部隊間の情報連絡の不備(ドイツ軍はオートバイを活用したが、フランス軍にはなかった)、装備の不備、動員の混乱、イギリス軍への不信などを告発している。なお、マルク=ブロックはパリ大学教授として、『フランス農村史の基本性格』や『封建社会』などの著作を持つ有名な中世史家であった。陸軍大尉として従軍し、フランス敗北後、50歳を過ぎていたが対独レジスタンス運動に加わった。そして1944年6月、ドイツのゲシュタポに逮捕され、殺害された。マルク=ブロックはユダヤ人であったが、フランスの愛国者としてナチズムに抵抗し、「フランス万歳」を叫んで銃殺されたという。なお、『奇妙な敗北』は1970年の東大出版会UP選書の他に、2007年に岩波書店から新訳が出版されている。
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ノートの参照
第15章5節 イ.ヨーロッパの戦争
書籍案内

マルク=ブロック/平野千果子訳
『奇妙な敗北―1940年の証言』
2007 岩波書店