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アメリカ合衆国の参戦(第二次世界大戦)

アメリカ合衆国は第二次世界大戦において孤立主義を守り、中立をかかげていたがF=ローズヴェルト大統領はファシズムの拡大を阻止するための参戦の機会を求めていた。ドイツ・イタリアと三国同盟を結ぶ日本が、1941年12月に真珠湾攻撃を機に参戦し、連合軍の中心戦力として戦い、戦後世界の主導権を得た。

 アメリカ合衆国は、1939年9月の第二次世界大戦勃発時には、戦争に参加しなかった。 第一次世界大戦でヨーロッパ列強の対立に巻き込まれてしまったという反省の感情が国内に強く、伝統的な孤立主義の外交政策を採らせることとなって1935年に中立法が制定されていたからである。しかし、ファシズム国家の台頭はアメリカが掲げる民主主義や人権といった理念の世界的な危機である考えられるようになり、その台頭をもたらした宥和政策は誤りであったという認識が広まっていった。 → アメリカの外交政策

孤立主義からの転換

 1940年6月、ヨーロッパではドイツ軍はフランスを降伏させ、イギリス上陸をめざすまでになった。フランスの降伏を受けてアジアでは日本軍がフランス領インドシナ進出の動きを見せ、アメリカの国益を大きく損なうと考えられるようになった。その9月に日独伊三国同盟が結成されると、F=ローズヴェルトはファシズム国家との開戦を決意して大統領選に臨み、11月に三選を果たすと、従来の孤立主義を大きく転換して、1941年3月に武器貸与法を成立させた。これによってイギリスなどへの軍事支援を武器貸与という形で可能とし、また同年8月の大西洋憲章でイギリスとともにファシズム国家との戦争目的を明らかにし、戦後世界の国際協調を提起し、事実上の参戦状態となった。

真珠湾攻撃を受け参戦

 全面的に参戦するにはさらに口実が必要であった。同年12月7日(現地時間)の日本軍の真珠湾攻撃はF=ローズヴェルトに格好の口実を与えたこととなった。後に、彼は日本の攻撃を事前に察知していたが、その事実を公表せず、奇襲攻撃という形にして「真珠湾を忘れるな!」というスローガンのもと、国民の戦意を高揚しようとしたのではないか、と疑われているがその確証はない。事実は日本大使館での最後通牒電文の翻訳に手間取ったことなどから、通告が遅れたらしい。
 いずれにせよ日米が開戦したことによって、日独伊三国同盟の規定に従って、ドイツとイタリアはアメリカに宣戦布告し、アメリカは自動的に参戦することとなった。

Episode チャーチルの満足

 日本軍が真珠湾を奇襲したという報告を受けたチャーチルは、「これで勝てた!」と感じたという。つまりアメリカが正式に参戦することになり、フランスが占領されているいま、イギリスにとって、唯一の絶大な同盟国が加わることになったからだ(チャーチルはソ連を最初から信用していない)。彼はその日、「感激と興奮とに満たされ、満足して私は床につき、救われた気持で感謝しながら眠りについた」という。<チャーチル『第二次世界大戦回顧録』3 p.56 河出文庫>
 日本軍の真珠湾攻撃は、世界史的な文脈のなかでは、チャーチルが安心して眠りについたという程度の効果しかなかった。これはしっかりと抑えておくべきことであろう。日本の立場からだけみていると、やむにやまれぬ、自衛のための戦争であったとか、アジアの解放のための戦争であったとか、戦争に意義付けがなされ、現実にそのために多くの人が命を捧げ、あるいは恨みをもって犠牲となった。ただ、当時の日本の為政者や軍に、世界史的な視野と現実分析があったら変わっていたかも知れないと思うのみである。
 しかし、チャーチルの見通しもここまでだった。41年6月の独ソ戦開始と12月のアメリカ参戦は、チャーチルの思惑を越えて、戦後世界史を規定する重要な変化をもたらした。つまり、ヨーロッパではドイツ軍と全面的に戦い、莫大な犠牲を払いながら勝利に導いたのがソ連軍であり、太平洋では日本と戦い勝利に導いたのはほとんどアメリカ軍の力であった。こうしてソ連とアメリカという二大軍事大国が戦後世界に大きな発言力を持つこととなり、イギリスは完全に主役の座を失うことになったからである。

第二次世界大戦

 1941年12月7日(現地時間)、日本軍の真珠湾攻撃を受けたF=ローズヴェルト大統領は、翌8日、議会を招集し、宣戦布告の可否をはかった。アメリカ合衆国憲法では宣戦布告は大統領ではなく、議会の専決事項だった。採決の結果は、上院は82対0、下院は488対1で日本に対する宣戦布告は議決された。その三日後の12月11日にはドイツ、イタリアとも戦争状態に入り、これによってアメリカ合衆国は、ドイツ・イタリア・日本の枢軸国に対して、イギリス・ソ連とともに連合国の一員として参戦することとなった。

Episode たったひとりの戦争反対票

 アメリカ議会で唯一宣戦布告に反対票を投じたのは共和党の女性議員ジャネット=ランキンだった。彼女は女性議員第一号としてモンタナ州から選出され、1918年に下院議員となり、その際もアメリカの第一次世界大戦参戦に反対した。その時は49票の反対票のひとつであったが、彼女は祖国の危機に協力しない非愛国者だとされ、戦後の選挙では落選した。しかし彼女は非戦の姿勢を崩さず、1940年に再び下院議員に当選すると、この第二次世界大戦参戦にも唯一、反対票を投じたのだった。その日から彼女は両方の世界大戦に反対票を投じた唯一の議員として「有名」になった。
(引用)電話ボックスの 外に集まった怒り狂った群衆から逃れた後、ジャネットは自分の事務所の机に座り、モンタナの人々に自分の行動について説明する手紙を書きました。彼女の言葉はアメリカのいくつかの新聞に掲載されました。「参戦に反対するたった一票を投じた瞬間、『この国を戦争に関わらせないために私ができるすべてのことはします』という選挙運動中にした約束を思い出しました」。そして自分の信念に従って投票したことを、彼女は繰り返しました。
 またもや、彼女の在任期間中に議会はあわただしく戦争の準備をし始めました。ジャネットはそれには一切関わりたくありませんでした。代わりに、軍需産業が巨大な利益を産むことを妨げるために、精力的に働き、家族の誰かが界外の戦場で戦っており、留守を守る家族への経済的な援助さえ提案しました。翌年、ジャネットは連邦議会議事録にあててある声明を書きました。その中で、「ルーズベルト大統領は、日本の真珠湾攻撃を予測していた可能性があります。この件に関して調査が必要であると思います」と示唆しました。その時点から、彼女に同意する人々も出始めました。<M.B.オブライエン/南部ゆり他訳『非戦の人 ジャネット=ランキン』2004 水曜社 p.59-60>
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書籍案内

W.チャーチル/佐藤亮一訳
『第二次世界大戦3』
河出文庫

M.B.オブライエン
南部ゆり他訳
『非戦の人 ジャネット=ランキン』
2004 水曜社