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日ソ中立条約

1941年4月、日本とソ連が結んだ領土保全と不侵略を相互に約束した条約。45年4月にソ連は不延長を通告、8月8日に破棄し満州に侵攻した。

 1941年4月14日、モスクワで調印された日本とソ連の条約で、相互に領土の保全および不侵略を約束し、締約国の一方が第三国から攻撃された場合は他方は中立を維持することを約したもの。有効期限は5年とされ、満期の1年前に締約国の一方から破棄の通告がなければ、さらに5年間、自動的に延長されることとなっていた。

日ソ接近の背景

 アメリカとの対決が不可避であると考えた第2次近衛文麿内閣の外相松岡洋右は、北方の安全を確保した上で、南進策を採る必要があると判断し、まず日独伊三国同盟にソ連を引き込むことを策したが、バルカン半島進出を狙っていたドイツの反対で実現できなかった。松岡は直接モスクワに飛び、書記長スターリン、外相モロトフと交渉、スターリンは北樺太など領土上の利害が対立するので日本との提携をはじめは渋ったが、ドイツのバルカン侵出の動きを警戒し、それを牽制する意味からも日本との提携に踏み切った。

Episode スターリン「これで日本も南進できる」

 モロトフ外相との交渉で樺太問題で暗礁に乗り上げ、松岡洋右は帰国を決意した。その夜、スターリンから急な連絡があり翌日の会談となったところ、スターリンは領土問題を棚上げにして妥結を急いだ。調印式後の宴会でもスターリンは上機嫌で、松岡の乗る列車の発車時間を遅らせ、さらに駅頭に送りに来て抱擁し、「これで日本も南進できる」と述べた話は、あまりにも有名である。<林茂『太平洋戦争』中央公論社版日本の歴史25 1967>

ソ連の不延長通告

 日ソ中立条約により、ソ連は戦力を対ドイツ戦に集中することが可能となり、スターリングラードの戦いでドイツ軍を進撃をくい止め、1943年7月から反転攻勢に出た。ソ連のスターリンは米英に対してヨーロッパ上陸作戦の決行を強く迫り、同年末のテヘラン会談では、ローズヴェルトとチャーチルはそれを約束、それにたいしてスターリンは対日戦争に踏み切ることを約束した。イタリアはすでに降伏し、ドイツの降伏も近いと想定された1945年2月4日~11日に開催されたヤルタ会談で成立したヤルタ協定では、日本との関連では、ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属とすることなどが取り決められた。
 太平洋戦争は1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄上陸作戦を敢行、いよいよ帰趨が明確になってきた。それを見て対日戦争に参加を急ぐソ連は、4月5日、モロトフ外相がモスクワ駐在の佐藤尚武大使をクレムリンに呼び、日ソ中立条約は1年後に期限が切れるが延長しない方針であると伝えた。直後にモロトフ外相はワシントンに至急電を入れ、アメリカ政府に日ソ中立条約の不延長を日本に通告したことを知らせた。スターリンはこのように日ソ中立条約不延長を明らかにし、ドイツとの戦争が終わり次第、「ヤルタ密約」に基づいて日本との戦争に入る事を明確にした。
 佐藤尚武大使はこの「不延長」の申し入れは事実上の「破棄」を意味していると見たが、4月7日に誕生した日本の鈴木貫太郎内閣の東郷茂徳外相を始めとする外交中枢は、日ソ中立条約は「なお1年間有効である」ことに期待し、米英への条件付き降伏交渉の仲介をソ連に打診した。ソ連は予想通り仲介を拒否した。一方、米英はソ連の対日戦争参加は表向きには歓迎しながら、戦後に東欧だけでなくアジアでもソ連の勢力が強まることを懸念、ソ連参戦前に対日戦を終了させることを急ぐため、極秘裏に原爆の開発を急ぐこととなった。
(引用)こともあろうに、間もなく敵国となるソ連に、米英への条件付き降伏交渉の斡旋を依頼するという致命的な外交エラーが、日本の終戦を大きく遅らせ、広島、長崎への原爆投下を含む無残な戦争被害の増大を招いたことは、今日ではもはや火を見るより明らかである。<仲晃『アメリカ大統領が死んだ日』2010 岩波現代文庫 p.105>

ソ連の参戦

 1945年5月8日、ドイツの無条件降伏が正式に決定、そのちょうど3ヶ月後の8月8日、ソ連は米英との「ヤルタ密約」にもとづいて、日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告を行い、翌9日、一斉に150万の軍が国境を越えて満州に進撃した。アメリカ軍はその2日前の8月6日には広島、ソ連侵攻と同日の9日に長崎に原爆を投下した。満州では日本の関東軍は崩壊し、ようやく14日にポツダム宣言の受諾を決定し日本の無条件降伏が確定した。
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第15章5節 ウ.独ソ戦と太平洋戦争