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テヘラン会談

第二次会大戦中の1943年末、カイロ会談翌日に開催された連合国首脳会談。アメリカ(フランクリン=ローズヴェルト)・イギリス(チャーチル)・ソ連(スターリン)三国首脳の初会談。第二戦線問題・ポーランド問題などを協議した。スターリンはドイツ降伏後の対日参戦を約束した。

 第二次世界大戦の進行する中、連合国の戦後処理構想協議のの一環として、カイロ会談に続いて、1943年11月28日~12月1日にイランの首都テヘランで開催された英米ソ三国の首脳会談。アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンの三首脳だけによる最初の会談であった。
 三首脳のうちのF=ローズヴェルトとチャーチルは、前日の11月27日までエジプトのカイロで蔣介石を加えたカイロ会談で主として対日戦争の戦後処理について協議していた。そこには、ソ連は日ソ中立条約を締結して日本とは戦争状態にはなかったので参加せず、議題をヨーロッパ戦線に変えるため、蔣介石は帰国し、翌日、ソ連に近いテヘランに場所を変えて開催したのがテヘラン会談であった。 → ヤルタ会談 ポツダム会談
米英ソ三首脳の合意点 三国の大戦遂行の決意、イランの独立と領土保全などどともに、いわゆる第二戦線問題ポーランド問題が討議された。第2戦問題ではほぼ合意ができ、連合軍の西ヨーロッパでの反撃開始が約束され、それに応じてスターリンも対日参戦を約束した。ポーランド問題ではチャーチルは積極的な打開を図ったが、ポーランド亡命政府の反対を受けて問題を持ち越した。また国際的平和機関の樹立については、10月のモスクワ宣言を受け、ローズヴェルトが米英ソ中の4大国による紛争解決のための調整機関をつくるという「四人の警察官」構想を提案し了承された。これは後の国際連合樹立に繋がることとなる。

第二戦線問題

 第二戦線問題とは、独ソ戦開始以来、ドイツとの長引く戦闘で疲弊していたソ連のスターリンが、西側の北フランス戦線で連合国側に反攻を実施することを要請したのに対し、チャーチルは北フランス上陸はすぐには無理であるとして反対し、かわってバルカン方面で反撃に出ることを主張し、戦略的な食い違いが生じたことを言う。チャーチルがバルカン方面での反撃にこだわったのは、ソ連のバルカン方面への進出を警戒したからである。しかし、ローズヴェルトはソ連を対日戦に引き込みたかったのでスターリンの要請に理解を示し、1944年5月に北フランスでの上陸作戦を実施することを約束した。それにたいしてスターリンは、ドイツ降伏後の対日参戦をローズヴェルトに約束した。

ポーランド問題

 第二次世界大戦末期に起こった、大戦後のポーランド国境をどこに置くかをめぐる、主としてイギリス(チャーチル)とソ連(スターリン)の対立。第二戦線問題と共に連合国内部の深刻な対立案件として話し合いが続けられた。1943年のテヘラン会談では、チャーチルはソ連赤軍によってポーランドが解放されると、東欧全体へのソ連の影響力が増すことをおそれ、その前にポーランド国境を確定することが有利と考え、西側をオーデル=ナイセ線、東側をカーゾン線(ヴェルサイユ条約でのポーランド・ロシアの国境線)で妥協しようとした。しかしロンドンのポーランド亡命政府(ミコワイチク首相)は国境をさらに東寄りにすることを譲らず、問題を持ち越した。
 → カチンの森事件  ワルシャワ蜂起  ヤルタ会談
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