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日本と第二次世界大戦

 長期化した日中戦争の打開に迫られた日本は、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、ドイツがオランダ・フランスを制圧すると、その動きに合わせて南進を決定し、東南アジアに侵出、同時に日独伊三国同盟を結成した。それはアメリカ・イギリス・オランダの利害と衝突することとなり、石油輸出禁止などの経済制裁を受けた。武力解決を主張する軍部に押され、1941年12月、アメリカのハワイ真珠湾攻撃を実行し太平洋戦争が勃発。これによってアメリカが参戦して第二次世界大戦はアジア・太平洋に拡大した。
 日本は42年春頃までの緒戦では次々と勝利して占領地を拡大したが、42年6月のミッドウェー海戦を境に次第に太平洋の制海権、制空権を失い、アメリカを主力とする連合軍が反撃に移り、43年にサイパンを喪失して本土空爆を許し、44年には沖縄を失い、45年8月の広島・長崎の原爆投下で大きな被害を出した。またソ連とは日ソ中立条約を締結していたが、連合国との結びつきを強めたソ連はその期限切れに対して延長せず、同じく8月、日本に宣戦布告して満州に侵攻、日本はこれらの事態受けて8月14日、ポツガム宣言を受諾し、15日天皇が放送で受諾を国民に知らせた。こうして日本は日中戦争からアジア・太平洋戦争につながる、十五年におよぶ戦争を続け、国民とアジアの人々に多大な犠牲を出して敗戦となった。

戦争と歴代内閣のかかわり

 1939年8月の独ソ不可侵条約の締結に対し、日本の平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」という声明を出して対処しきれず総辞職した。次に阿倍信行内閣にかわったところで9月1日のドイツのポーランド侵攻が始まり、第二次世界大戦が勃発した。阿倍内閣は日中戦争に全力であたるとしてヨーロッパの戦争には不介入を宣言した。次の米内光政内閣も親英米であったので参戦しなかった。しかし、次の第2次近衛文麿内閣(1940年7月~)は「大東亜共栄圏」の建設を掲げ、そのもとで外務大臣松岡洋右がドイツ・イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結して枢軸国との連携を推進し、一方でソ連とも日ソ中立条約を締結した上で南進の勢いを強くし、米英との対決姿勢を強めた。国内的には大政翼賛会を組織して全体主義体制を作り上げた。近衛第3次内閣のもとで駐米大使野村吉三郎とアメリカ国務長官ハルの間で日米交渉が続けられたが、独ソ戦の開始を受けて早期の武力決着を主張する軍部におされ、帝国国策遂行要領を決定して、日米交渉の不調の場合の対米戦争開始を決定した。近衛首相はなおも交渉を継続しようとしたが軍との溝が深くなって辞任、次に東条英機内閣が成立した。東条内閣は首相と陸相などを東条英機が兼ねる軍主導の内閣であった。東条内閣は、アメリカの最終回答(ハル=ノート)が満州国の放棄などを求めていたため、和平を断念、御前会議で開戦を決定した。1941年12月に日本軍が真珠湾奇襲を実行、ついに太平洋戦争に突入、アメリカ・イギリスと全面的な戦争に突入した。
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ノートの参照
第15章5節 ウ.独ソ戦と太平洋戦争