アメリカの核実験
アメリカ合衆国は第二次世界大戦中のマンハッタン計画によって原爆を実用化して広島・長崎に使用した。戦後も1951年にネバダ核実験場を開設して核兵器開発を本格化させ、54年にはビキニ環礁で水爆実験を行った。キューバ危機後の63年に部分的核実験停止条約を締結したが、全面的な核実験の停止には至っていない。
第二次世界大戦に参戦したアメリカでは、1942年にF=ローズヴェルト大統領が、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画に着手し、1945年7月に世界に先駆けて実用化し、1945年8月にトルーマン大統領の決断によって広島・長崎に投下した。
こうして原子力委員会は暗礁に乗り上げ、その後成果を上げることができず、後に軍縮小委員会と合体する形で消滅する。アメリカが採決を急いだのは、ソ連が原爆実験の準備を進めていたからで、制裁を加えることのできる案でソ連を牽制するためであった。このように、米ソ両国は国連の場では核の国際管理や禁止条約を主張しながら、それぞれ国内では着々と核実験を準備しているという態度であったので、国際的な信頼を失っていった。<国連原子力委員会での米ソ対立の経緯については紀平英作『歴史としての核時代』世界史リブレット 1998 山川出版社 が詳しく、有意義。>
水素実験 アメリカは1952年には水素爆弾の実験を成功させたが、水爆実験は1954年からは南太平洋のマーシャル群島のビキニ環礁などを実験場として行われるようになる。
ビキニ環礁の水爆実験は、現地の漁民と日本のマグロ漁船第5福竜丸乗組員が被爆し、大きな衝撃を世界に与えた。そこから、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言が発表され、核兵器廃絶運動が世界的に広がることとなった。
ところが、『征服者』ロケに参加して、癌で死んだのはジョン・ウェインだけではなかった。相手役のスーザン・ヘイワード、メキシコ人俳優ペドロ・アルメンダリス(癌を苦に自殺)、それに監督以下のスタッフも多くがその後数年の間で癌にかかっている。それだけではなく、セント・ジョージの市民や、インディアン居住地の住民に異常に癌の発症率が高いことがわかってきた。セント・ジョージの街はネバダ核実験場の東方約200kmのところにある。アメリカの原子力当局はこれだけの距離があれば、核実験との因果関係は無く、安全であると言っていたが、次第に住民は疑いを持つようになった・・・・。
この事実は、日本のノンフィクション作家広瀬隆が1982年の『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』で明らかにした。同書に拠れば、驚くべきことにウェイン以外にも、1950年代にこの付近でロケに参加した多くの俳優が、癌で倒れているという。ハリウッドで西部劇が急速に制作されなくなった背景でもあると著者は指摘している。広瀬隆はこの本だけでなく、『東京に原発を!』などの反原発論を展開しており、原子力関係者や科学者の中には声高に反論する人々もいるが、広瀬氏の言っていることはなかなか説得力がある。何年にも渡り大気中で行われた核実験で発生した死の灰が風下のユタ州に降り積もり(風向きがラスヴェガスのある南向きやロサンジェルス方面の西向きの時は実験をしなかった)、そこで暮らしたり滞在した人の体内に取り込まれ、ごく微量であっても濃縮され、やがて癌を発症したのだという。日本列島には現在多数の原発や核廃棄物貯蔵施設があるが、実はネヴァダ・ユタ・アリゾナ三州の広さと同じぐらいであるという指摘をうけると、特に地震大国日本ではたして原発が安全なのか、考えさせること大であった。あんのじょう、2011年3月11日、福島原発が地震と津波で破壊され、メルトダウンが起きるという現実を突きつけられることとなった。<広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1982 現在は文春文庫。改訂版もある。>
戦後の核実験再開
第二次世界大戦後の冷戦の中で、アメリカ合衆国は唯一の核兵器所有国となって軍事的優位を占めていた。アメリカは地位をまもるために、1946年7月25日、太平洋上のビキニ環礁で戦後初の原子爆弾の核実験を実行した。並行して国際連合に設置された原子力委員会では核開発の国際管理を提案して、核開発におけるアメリカの主導権を得ようとした。<紀平英作『歴史としての核時代』世界史リブレット 1998 山川出版社 p.76>国連原子力委員会での議論
アメリカでは核兵器の管理をどうすべきか、議会、財界、軍部から様々な意見が出された。その対立点は、世界破滅にもつながるような核兵器をアメリカが独占するのが正しいかどうか、国際管理などを考えるべきではないか、といった点であった。大統領トルーマンは「神の信託」論を発表し、原爆が民主主義国であるアメリカによって用いられたことは、神の信託によるものであると正当化した。それに対してはアインシュタインらの物理学者は強く批判し、戦後もアメリカが核を独占する理由にはならない、と述べた。国際連合総会の第一回では核兵器の問題をまずとりあげ、国連原子力委員会の設立を可決した。アメリカでは委員会への参加をめぐって、原子力・核開発の国際管理を推進する案を提出したが、途中から委員長となったバルークは陸軍の意向をいれて、アメリカ案に拒否権と違反国への制裁を加えた。委員会ではソ連代表のグロムイコがアメリカを非難し、すべての国が核兵器を持つことを禁止する核兵器禁止条約を提案した。委員会はアメリカの主張で採決を急ぎ、12対2(ソ連とポーランド)でアメリカ案を可決した。こうして原子力委員会は暗礁に乗り上げ、その後成果を上げることができず、後に軍縮小委員会と合体する形で消滅する。アメリカが採決を急いだのは、ソ連が原爆実験の準備を進めていたからで、制裁を加えることのできる案でソ連を牽制するためであった。このように、米ソ両国は国連の場では核の国際管理や禁止条約を主張しながら、それぞれ国内では着々と核実験を準備しているという態度であったので、国際的な信頼を失っていった。<国連原子力委員会での米ソ対立の経緯については紀平英作『歴史としての核時代』世界史リブレット 1998 山川出版社 が詳しく、有意義。>
米ソの核開発競争
1949年9月25日、アメリカの広島・長崎への原爆投下後から直ちに核開発に着手していたソ連は核実験を成功させ、アメリカの優位が揺らぐこととなった。そこでアメリカは、より大規模な核兵器の開発研究を急ぎ、1951年にネバダ核実験場を開設し、水素爆弾の開発に着手した。こうして米ソの核兵器開発競争は急激にエスカレートしていった。水素実験 アメリカは1952年には水素爆弾の実験を成功させたが、水爆実験は1954年からは南太平洋のマーシャル群島のビキニ環礁などを実験場として行われるようになる。
ビキニ環礁の水爆実験は、現地の漁民と日本のマグロ漁船第5福竜丸乗組員が被爆し、大きな衝撃を世界に与えた。そこから、1955年のラッセル・アインシュタイン宣言が発表され、核兵器廃絶運動が世界的に広がることとなった。
ネヴァダ核実験場
ネヴァダはアメリカ西部の州。アメリカはこの実験場で、1951年から58年までは地上(大気中)での原爆実験を97回実施した。1963年以降は部分的核実験停止条約が成立したため、地下核実験に切り替えられた。現在では臨界前実験を行っている。別データによると、1951年から1992年にかけて、925回の核実験が行われたという。ネヴァダ核実験場の周辺は砂漠地帯であるが、その南方にはラス・ヴェガスがある。1970年代から、周辺のユタ州などの周辺地域住民に放射線被害と見られる癌の多発などが問題となっており、訴訟も起こされている。Episode ジョン・ウェインはなぜ死んだ?
1954年、ユタ州セント・ジョージ市郊外の砂漠地帯で、ハリウッド映画『征服者』のロケが行われた。主役は西部劇のスター、ジョン・ウェイン。ジンギスカンを描いた大スペクタクル映画で、監督(ディック・パウエル)以下、スタッフ数百人が滞在、近くのインディアン居留地からも多数のエキストラが動員された。ロケは数ヶ月に渡り、砂漠の中で撮影が行われた。その後もウェインは西部劇スターとしてユタやアリゾナのロケに参加した。その10年後、ウェインは激しい咳に苦しむようになり、肺ガンだと診断された。手術でいったんは克服したが、胃に転移し、1979年、大腸癌で死亡した。ところが、『征服者』ロケに参加して、癌で死んだのはジョン・ウェインだけではなかった。相手役のスーザン・ヘイワード、メキシコ人俳優ペドロ・アルメンダリス(癌を苦に自殺)、それに監督以下のスタッフも多くがその後数年の間で癌にかかっている。それだけではなく、セント・ジョージの市民や、インディアン居住地の住民に異常に癌の発症率が高いことがわかってきた。セント・ジョージの街はネバダ核実験場の東方約200kmのところにある。アメリカの原子力当局はこれだけの距離があれば、核実験との因果関係は無く、安全であると言っていたが、次第に住民は疑いを持つようになった・・・・。
この事実は、日本のノンフィクション作家広瀬隆が1982年の『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』で明らかにした。同書に拠れば、驚くべきことにウェイン以外にも、1950年代にこの付近でロケに参加した多くの俳優が、癌で倒れているという。ハリウッドで西部劇が急速に制作されなくなった背景でもあると著者は指摘している。広瀬隆はこの本だけでなく、『東京に原発を!』などの反原発論を展開しており、原子力関係者や科学者の中には声高に反論する人々もいるが、広瀬氏の言っていることはなかなか説得力がある。何年にも渡り大気中で行われた核実験で発生した死の灰が風下のユタ州に降り積もり(風向きがラスヴェガスのある南向きやロサンジェルス方面の西向きの時は実験をしなかった)、そこで暮らしたり滞在した人の体内に取り込まれ、ごく微量であっても濃縮され、やがて癌を発症したのだという。日本列島には現在多数の原発や核廃棄物貯蔵施設があるが、実はネヴァダ・ユタ・アリゾナ三州の広さと同じぐらいであるという指摘をうけると、特に地震大国日本ではたして原発が安全なのか、考えさせること大であった。あんのじょう、2011年3月11日、福島原発が地震と津波で破壊され、メルトダウンが起きるという現実を突きつけられることとなった。<広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』1982 現在は文春文庫。改訂版もある。>