印刷 | 通常画面に戻る |

チェコスロヴァキアの連邦解消

1989年の民主化達成後、民族主義が台頭、連邦快勝が議決され、1993年にチェコとスロヴァキアに分離し、別個の国家となった。

 チェコスロヴァキア共和国(第一共和制)は第1次世界大戦後、1918年に、チェック人の多いボヘミア・モラビア地方(あわせてチェコ地方)と、スロヴァキア人が多いスロヴァキア地方を合わせて成立した新しい国家だった。両者は西スラヴ人に属するという共通性があり、言語的にも同一であったので、マサリクらによる独立運動は当初から単一国家の建設を目標に展開され、それが実現した。
 しかし両地域は地理的条件、歴史的背景に相当な違いがあった。チェコはかつてオーストリアの、スロヴァキアはハンガリーの領土であったということと、チェコは平野に恵まれて生産力が高く、プラハを中心として工業は早くから発達していたが、スロヴァキアは山地が多く農業地域であるという点は特に顕著な違いであった。  第二次世界大戦前にはミュンヘン会談チェコスロヴァキアは解体され、チェコはナチスドイツに併合され、チェコスロバキアは独立は維持したが保護国とされた。  第二次大戦後の1948年に成立した単一国家チェコスロヴァキア社会主義共和国では、党組織や国家の各機関でのチェコ側の優位が続いていた。1968年の「プラハの春」の改革ではスロヴァキア出身のドプチェクはチェコとスロヴァキアの対等な連邦化を掲げたが、チェコ事件でソ連の軍事介入を受け実現しなかった。
 その後1989年にチェコスロヴァキアの民主化(ビロード革命)が一気に達成された後、共産党支配を排除した反動で、チェコ人とスロヴァキア人の民族主義が台頭、急速に連邦解消、分離が叫ばれるようになり、ハヴェル大統領など穏健な連邦維持派は少数となり、1993年に議会はチェコとスロヴァキアへの分離を議決し、分離が決定した。 → 現在のチェコ スロヴァキア

Episode ハイフン論争。チェコスロヴァキアか、チェコ=スロヴァキアか。

 1989年に民主化を達成、1990年に新憲法を制定するに当たり、議会で国名論争が起こった。国名から社会主義を消すことでは合意したが、チェコ出身議員は「チェコスロヴァキア連邦共和国」にこだわり、スロヴァキア出身議員は「チェコ=スロヴァキア連邦共和国」とすることにこだわった。スロヴァキアの独自性を強く意識したのだった。双方とも譲らず、国名さえ決まらないという異常事態となったためハヴェル大統領が仲介し、いずれをも公式名称とすることで妥協が成立し、異例の二重表記国家が生まれた。それでもスロバキア側の不満はくすぶり続け、4月には「チェコおよびスロバキア連邦共和国」の統一表記とすることで一応決着したが、分離の流れを止めることはできず、1993年についに国家分離となった。<三浦元博/山崎博康『東欧革命』1992 岩波新書 p.202>
印 刷
印刷画面へ