アラブ連盟/アラブ諸国連盟
1945年3月、アラブ諸国の共通利害を守るためにエジプト王国が主導して結成。当初はアラブ系7ヵ国が加盟。イスラエル建国に反対で一致し、中東戦争では重要な役割を担ったが、エジプト・イスラエルの和解で共同歩調に乱れが生じ、結束力はなくなったが、組織上は現在も20ヵ国以上の加盟で存続している。
アラブ連盟の結成
アラブ連盟は「アラブ諸国連盟」ともいう。イスラーム教徒でありアラビア語を使用するという共通項のあるアラブ人諸民族諸国の共通利害を守り、関係強化をめざし、アラブ諸国への欧米からの干渉を排除し、アラブ人の未独立国家の独立を支援するためにつくられた国際組織。1945年3月、エジプト王国が提唱し、エジプト、イラク、トランスヨルダン、サウジアラビア、イエメン、シリア、レバノンの7ヵ国が最初の加盟国として結成された。本部はエジプトのカイロに置かれた。なお、1958年2月にはシリアとエジプトが合同して成立させたアラブ連合共和国とは別なので注意すること。ただし、この段階ではこれらの国家は王政国家が中心であった点で、現在のアラブ連盟とも異なる。エジプトはムハンマド=アリー朝のファルーク国王、イラクとヨルダンはともにハーシム家の国王、サウジアラビアはサウード家の国王の支配する王国、イエメン王国(北イエメン)もシーア派イマームを国王とする王国であった。これらの王家間の対立は激しく、特にハーシム家はもとはメッカの太守であったものがサウード家に追われた過去があるので、両王家の関係は悪かった。したがって、当初のアラブ連盟は結束力も弱く、アラブ人の民族的連帯党側面も弱い、単なるアラブ系王国の協力機関にすぎなかった。
パレスチナ戦争での敗北とエジプト革命
アラブ連盟は内部対立と王国内の腐敗などから力を結集することができず1948年のパレスチナ戦争(第1次中東戦争)ではイスラエル軍に敗北してその建国を許してしまった。戦後の1952年にイギリス寄りの王政が倒されるというエジプト革命が起こり、アラブ世界は一変した。エジプト革命はアラブ世界に大きな影響を与え、民族社会主義をとなえ、第三世界のリーダーとなったナセルの指導力が強まった。1958年にはイラク革命がおき、王政が倒され共和政となった。このようにアラブ連盟加盟の諸国はそれぞれ内部に対立要素を抱え、その後の中東戦争でも足並みがそろわず、パレスチナ問題を複雑化させている。
現在のアラブ連盟
現在はアラブ諸国の国際機関として22ヵ国が加盟している。1945年の創立時の7ヵ国に、リビア、スーダン、チュニジア、モロッコ、クウェート、アルジェリア、南イエメン、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、モーリタニア、ソマリア、ジブチ、およびパレスチナ解放機構(PLO)が加わった。現在も中東和平でも重要な役割を担っている。本部はエジプトのサダト大統領がイスラエルを承認したときに脱退したので、一時チュニジアのチュニスに置かれたが、現在はエジプトのカイロに戻っている。シリアの除名と復帰 2011年1月、アラブ諸国で一斉に起こったアラブの春の動きの中で、シリア=アラブ共和国でも長期政権を続けていたアサド政権に対して民主化と抑圧されていたクルド人など反体制派が蜂起してシリア内戦が始まった。この時、サウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)、カタールなどは反体制派を支持し、シリアのアラブ連盟への参加資格を停止した。
内戦はアメリカが反体制派を支援したが長期化し、2015年にロシアのプーチンが本格的に軍事支援を開始したことによってアサド政権は軍事的優位に立つようになった。情勢の変化を受けてサウジアラビア、UAEなどは次第にアサド政権との関係改善に向かった。こうして2023年5月7日、12年ぶりにシリアのアラブ連盟への復帰が承認され、19日にサウジアラビアのジッダで開催されたアラブ首脳会議にアサド大統領が内戦後初めて出席した。アサド政権のシリアがアラブ連盟に復帰したことに対し、アラブ諸国の多くは歓迎の意を示したが、アサド政権に制裁を続けているアメリカは非難している。また、アサド政権の反体制派やクルド人に対する非人道的な弾圧が許されたことに対して、1300万人以上と言われるシリア難民は怒りを募らせているという。<朝日新聞 2023/5/21 などによる>