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アラファト

1970~90年代、パレスチナ解放機構(PLO)を率いた指導者。過激な方針を採ったが後に1988年、「二国家共存」を打ち出し、イスラエルとの妥協を図る。1993年、イスラエルと暫定和平を実現し、パレスチナ暫定自治政府の首班となるが、民衆の支持を無くし、失意の中に2004年に死去した。

 1969年にパレスチナ解放機構(PLO)議長に就任し、1970年代以降のパレスチナ人の対イスラエル闘争と独立運動を指導し、90年代には中東和平交渉のパレスチナ代表として活躍した人物。特に1970年代以降のパレスチナ問題(中東問題)のカギを握る人物として、世界の耳目を集めた。1980年代末からはイスラエルの存在を認めて「二国家共存」の和平を進め、暫定自治の行政には失敗し、完全なパレスチナ国家の樹立を観ること無く、2001年に死去した。 → パレスチナ問題/中東問題(1980年代)  パレスチナ問題/中東問題(1990年代~現代)

ファタハの結成

 1929年にアラブ人としてイェルサレムに生まれ、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)、第2次中東戦争(スエズ戦争)にアラブ軍兵士として参加、1959年頃、数人の仲間と「アル=ファタハ」という武装集団を結成した。アル=ファタハは、パレスチナの解放はアラブ諸国の首脳の政治的駆け引きで実現されるのではなく、パレスチナ人自らが武器を取って立ち上がるしかないと考え、ヨルダンを基地として、シリアからの武器援助を受け、65年からイスラエルに潜入して破壊活動を開始した。

PLO議長として活躍

 1968年3月21日の戦闘で、PLOのゲリラ戦術がイスラエル軍に勝利し、アラファトの名声があがり、翌年PLOの議長となり、パレスチナ側の代表格となった。しかし、ヨルダンのフセイン国王は、国内での反体制運動に転化することをおそれ、1970年にPLOに国外退去を要求、アラブ同士の戦闘であるヨルダン内戦が勃発(PLOはこれを「黒い9月」とよんだ)の結果、PLOは拠点をレバノンのベイルートに移すこととなった。

テロ攻勢

 1970年代にはPLOの主流派を占めたアラファトのファタハなどの激しい武装闘争は世界の注目を浴びた。イスラエルのロッド空港での無差別テロ、「黒い9月」グループによるミュンヘン・オリンピック襲撃事件などは国際世論から非難されるようになった。

エジプトの方向転換

 この間、アラブとイスラエルの対立軸の中心となっていたエジプトは1970年にナセルの死去によりサダト大統領に交代、アラブの盟主としての立場から第4次中東戦争を起こし、一時的な勝利を収めて名声を高めたが、その後財政悪化に陥り、密かに和平を模索することになった。
 レバノンではキリスト教徒(マロン派)が多数を占めていたので、PLOを支持するイスラーム教徒との内戦(75年レバノン内戦)が起こった。しかもアラブ国家である隣国のシリア(アサド大統領)が介入してPLO排除に動き、PLOは苦戦に陥った。この間、エジプトのサダト大統領の和平工作が進み、1979年にエジプト=イスラエル和平条約を締結、これはPLOには「裏切り行為」となり、PLOはエジプトの支援なしにイスラエルと戦わざるを得なくなった。

レバノンからの退去

 エジプトとの和平を達成したイスラエルは、レバノンのPLO排除を本格化させた。1982年にはイスラエル軍がレバノンに侵攻、ベイルートを占領したため、アラファトらPLO指導部はチュニジアに移動せざるを得なくなった。パレスチナを離れたPLOは、そのころから武装闘争路線を後退させ、外交的手段でパレスチナ国家樹立を目指す方向に転換、和平を模索することとなる。

和平路線に転換

 1987年、ガザ地区で自然発生的なパレスチナ人の暴動(インティファーダ)が起こり、国際世論がパレスチナ自治実現の方向に大きく傾いた。このような情勢を受け、88年12月アラファトは国連で演説して「イスラエルの生存を認め、テロ行為を放棄する」という「二国家共存」路線への転換を宣言した。91年からオスロでイスラエル側と交渉に入り、93年暫定自治の実現でのオスロ合意に達し、パレスチナ暫定自治協定によって暫定自治政府が樹立されることとなった。

暫定自治政府の統治

 1994年、ガザに戻ってパレスチナ暫定自治行政府議長となった。翌年にはラビンイスラエル首相らとともにノーベル平和賞を受賞した。しかし、95年にラビン首相が暗殺されて和平路線は停滞、イスラエルにネタニエフ政権やシャロン政権の右派政権に代わり、パレスチナ側の自爆テロとそれに対するイスラエル軍の報復という悪循環が続き、アラファトもヨルダン川西岸の拠点ラマラでイスラエル軍により軟禁状態に置かれ、次第に実権から離れた。代わってガザ地区を地盤としてイスラーム原理主義に基づく国家建設を掲げるハマスが台頭し、民衆の支持を集めるようになった。2004年11月、パレスチナの解放を見ることなく死去した。

アラファトの誤り

 アラファトは、パレスチナ民族運動の指導者として、PLOのゲリラ部隊であるファタハをひきいてイスラエル軍だけで無くヨルダン、レバノンなどの正規軍とも戦い、幾度か敗北しながら粘り強く戦った。その点では傑出したゲリラ戦の指導者だったと言える。そのアラファトが、1994年から、暫定自治政府の長として、ヨルダン川西岸・ガザ地区のパレスチナ人を統治するという立場に立つことになった。「自治政府の長」としてその行政手腕が問われることになったが、その実態は他のアラブ諸国の独裁政治と変わるところがなかった。
(引用)人事権をはじめ、権力を一手に握るワンマン体制の支配を確立、ほかのアラブ諸国と同じような腐敗・汚職構造、情実政治などの独裁政治に陥ったのは否めない。地元住民の不満の強まりとともに、こうしたアラファト自治政府に見切りをつけて「変化」と現状打破の「変革」を求める新しい底流が生まれてきた。<森戸幸次『中東和平構想の現実―パレスチナに「二国家共存」は可能か』2011 平凡社新書 p.51>

Episode 棺を覆いて事定まる

 現在のパレスチナ人にとっても、アラファトは功罪相半ばする人物と評価されているという。「革命家」としては優れていたが「統治者」としては失格だった歴史上の人物はたくさんいる。彼もその一人なのだろうか。日本では、彼がノーベル平和賞を受賞したこともあって中東和平を実現した人物と評価されることが多く、その後のパレスチナ問題の混迷の現実を飲み込めない人が多い(かくいう私もそうだ)が、森戸氏が言うように「棺を覆いて事定まる」のであろう。現在のハマスの台頭も故なしとしない。
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書籍案内

森戸幸次
『中東和平構想の現実
―パレスチナに「二国家共存」は可能か』
2011 平凡社新書

時事通信特派員として長く中東に滞在した筆者が、なぜ中東和平が進展しないかについて、パレスチナ人に取材した注目すべき書物。