印刷 | 通常画面に戻る |

インド人民党

1980年代に急速に台頭したヒンドゥー至上主義を理念とするインドの政党で、1998年に政権を獲得した。

 現代インドの政党で、結成は比較的新しく、1980年。Bharatiya Janta Party 略称はBJP。ヒンドゥー至上主義をその理念とし、戦後のインドの政治を支配していたインド国民会議派が企業の国有化など社会主義的な政策を採るようになったことに反発し、自由主義経済の徹底を主張、汚職などの政権の腐敗を根絶することをかかげている。指導部には上位カースト出身者が多い。

アヨーディヤ襲撃事件

 1992年12月、インド人民党を先頭とするヒンドゥー至上主義者は、アヨーディヤのバーブリ・マスジットといわれるイスラーム教モスクを襲撃して破壊した。このモスクは、ムガル帝国の開祖バーブル配下の軍人が、1523年に建立したもので、インド=イスラーム文化の遺産のひとつであった。インド人民党の行動隊がこのような破壊活動を行った理由は、この地はモスクが建てられる前は、ヒンドゥー教の聖地であるラーマ寺院があったところである、ということであった。インド人民党などのヒンドゥー至上主義(ヒンドゥー原理主義ともいう)の指導者は、インドを純粋なヒンドゥー教国家にすることを主張し、早くからアヨーディヤのモスクを破壊するキャンペーンを展開しており、その主張を実行したものであった。
 この破壊行為に対し、インド政府のラーオ首相(ラジブ=ガンディー暗殺により、会議派指導者となった)はその活動を抑えることをせず、黙認の姿勢に終始した。そのため、ヒンドゥー至上主義者のイスラーム排斥運動はさらに激化した。
アヨーディヤ問題の本質 1980年代にインド人民党が急速に台頭した理由は、「ひとえに与党国民会議派の内政、外政にまたがる無原則的で使命観を喪失した政治と政策に由来した。」強権政治家インディラ=ガンディーはマキャベリ的で、自己の立場に役立つならばヒンドゥー原理主義とも妥協した。また、ラジブ=ガンディーもムスリム原理主義に屈しながら一方でヒンドゥー原理主義に寛容であった。総選挙で有利だと判断すれば、彼らがアヨーディヤのモスクの脇にラーマ寺院を建立することを黙認した。「これは敵に塩を送るどころか、砂糖まで送るに等しく、会議派がヒンドゥー原理主義の軍門に屈したことを意味した。」
 インドの政治にはヒンドゥー対ムスリムの宗教対立(コミュナリズム)があることは確かであるが、アヨーディヤ問題の本質は、一部ジャーナリズムが報じるような「宗教戦争」ではない。
(引用)アヨーディヤ問題の本質は、ヒンドゥー対ムスリムの問題ではない。むしろこの基底にはインドの民主主義対ファシズムの対抗がある。具体的にそれは、民主主義派、良識派に属する大多数のヒンドゥーや少数派ムスリムに対抗する、ヒンドゥー・ファシスト集団の暴挙に過ぎない。そもそも全インド的に均質で同一の集団心性をもつヒンドゥー集団なるものは、事実問題として存在していない。したがってヒンドゥー対ムスリムという対抗構図の単純な設定と重視は、同時代史としてのインド民衆の民主主義への闘いを刻んだ全過程を否定する結果となる。<中村平治『インド史への招待』1997 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館 p.177>
 インドの歴史家や考古学者は、例外なしにアヨーディヤのラーマ寺院の存在を否定している。そしてバーブリ-・マスジットの歴史的遺産を尊重すべきだとする立場を表明している。<中村平治『同上』 p.178>

インド人民党の政権獲得

 1996年の総選挙ではじめて連立政権に参加、1998年の総選挙でインド国民会議派が敗北し、政権交代が実現し、インド人民党のヴァージーぺーイー(日本ではバジパイと表記された)が首相となり政権を担った(04年まで)。カシミールで国境問題を抱えるイスラーム教国パキスタンに対しては強硬姿勢をとり、同年5月、軍事目的でインドの核実験を強行した。それに反発したパキスタンが数日後に地下核実験に踏み切り、核保有国となったことによって、南アジアでの核戦争の危機が懸念されている。
 この間、ヒンドゥー至上主義者によるイスラーム教徒に対する強硬姿勢はますます強まり、2002年にはアーメダバードでによるイスラーム教徒襲撃事件で約千人の犠牲が出るなど宗教対立が相次いだ。2004年の総選挙で、穏健なヒンドゥー教徒の支持を無くし、インド国民会議派に第1党の座を譲った。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

中村平治
『インド史への招待』
歴史文化ライブラリー
1997 吉川弘文館