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エジプト文明

ナイル川流域に生まれた古代文明。前3000年頃、エジプト古王国が成立。ピラミッド、ヒエログリフなどに見られる高度な文明を発展させ、前1世紀のヘレニズム時代の終わりまで続いた。

 エジプトにおいて、ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて形成された文明。エジプトはメソポタミアとともに広い意味のオリエントを構成している。
 ナイル川下流の大三角州地帯である下エジプトの古代エジプト人が、メソポタミア文明の影響をうけて前5000年頃から潅漑農業による農耕文明に入り、ノモスという小国家の分立を経て、前3000年紀頃にノモスを統一してエジプト古王国を成立させた。エジプトは、農耕文明はメソポタミア文明より遅かったが、統一国家の形成はそれより早い時期であった。
 古王国の時代に青銅器の使用、文字(ヒエログリフ)、ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄した。
 エジプト王国はその後、中王国、新王国と推移し、前332年までに31の王朝が興亡した。ここまでがエジプト古代文明と言うことができる。この間、一時的にヒクソス、アッシリア、ペルシアなどの異民族の支配を受け、また新王国はシリアに進出するなど、他のオリエント世界と密接な関係にあったが、エジプト文明は維持された。また、オリエント世界だけでなく、最近ではナイル川上流のアフリカ世界の黒人王国であるクシュ王国のエジプト支配、あるいは西方のリビアからの侵入があったこともわかってきている。
 その後、前4世紀のアレクサンドロス大王の支配、プトレマイオス朝エジプトのギリシア系権力が成立したが、この王朝の王はファラオを名乗り、エジプト文明の要素を吸収して、いわゆるヘレニズム文明を形成した。しかし、プトレマイオス朝が前1世紀末にローマに滅ぼされ、エジプト文明は終わりを告げた。その後、7世紀以降はイスラーム化し、大きく変貌する。

世界史の源流としての古代エジプト文明

 人類史上突出した文化を生みだした古代エジプト王国とその文明は、世界史という大きな流れの中でどのように位置づけがなされるべきであろうか、という気鋭のエジプト学者大城道則氏の問いかけをその近著『古代エジプト文明』から聞いてみよう。
(引用)現在、日本における義務教育とその延長線上に存在している(教科としての)世界史という大きな枠組みの中で、古代エジプト史の占める割合は、分量的に決して多くはない。しかしながら、通常「世界史」と呼ばれる人類の歴史の流れの中の節々で、古代エジプトに関する事柄が姿を現すことがある。特にそれは周辺諸国との関係において顕著である。たとえば「アマルナ文書」「カデシュの戦い」、そして「海の民」という用語などは、高等学校の世界史Bの教科書、あるいは少なくとも詳説世界史的な授業用参考図書に間違いなく登場するのである。「アクエンアテン(イクナートン)の宗教改革」や「モーセの出エジプト」も必須事項であろう。「古代エジプト史の黄昏」と称される斜陽の時期である新王国時代以降の時期ですら、アッシリア、ペルシア、ギリシア、ローマと関連するコンテクストの中で、このナイル河畔で生まれ育った偉大な文明は語られ続ける。黄昏のこれらの時期ですら、古代エジプト文明は、その輝きを完全には失っていないのである。しかしながら、新王国時代以降の時期はまた、地理的にヨーロッパの源郷である古代ギリシア・ローマ世界の対極に位置する北アフリカ地域で誕生した古代エジプト文明が、独立性を喪失し、世界史の中へと組み込まれていく過程を明確に示している。古代エジプト文明の黄昏は、地中海世界を核として成長しつつあったヨーロッパ世界の興隆の時期でもあったのだ。( )は引用者。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.6>
 筆者は、古代エジプト文明が「世界史の源流」の一つであったことを、新王国の時代の後半のエジプトにユダヤ教の始祖モーセが現れたことと、ヘレニズム時代にアレクサンドリアが地中海世界の知の核として機能したことを例として指摘している。ここに、最近のエジプト史の論述ではどのあたりに注目が集まっているかをうかがうことができる。