クラッスス
前1世紀、ローマ共和政末期に閥族派の将軍として台頭、スパルタクスの反乱などで活躍、富を貯え大富豪となる。実力者の一人として前60年に三頭政治(第1回)の一角を占めカエサル、ポンペイウスと対抗した。東方遠征に赴いたがパルティアとの戦いで前53年に戦死した。
クラッスス( 前115年頃~前53年 フルネームはマルクス=リキニウス=クラッスス。Marcus Licinius Crassus なので、グラックス Gracchus と間違えないこと)はローマ共和政末期の内乱の1世紀といわれた時期に軍人として活躍しながら富を築いて大富豪となり、執政官を務めた。前60年に、カエサル、ポンペイウスと共に第1回三頭政治を行った。東方遠征の途次、前53年にパルティアとの戦いで敗れて戦死した。
クラッススはパルティアの勢力が強まり、シリア・パレスティナに及んできたため、自ら遠征を企てた。この遠征には反対する人も多かったが、クラッススは、かつてミトリダテス戦争のときにポンペイウスが上げた勝利より以上の戦果を上げなければと意気込んでいた。 ユーフラテス川を越え、メソポタミアに達し、パルティア軍と遭遇し、前53年、カルラエの戦いで激戦となったが、乱戦の中で戦死した。この時、ローマ軍は軍徽章を奪われるという不名誉なこともあった。
三頭政治の一角のクラッススの不名誉な敗北は何故だったのだろうか。プルタルコスはその『英雄伝』のクラッスス伝で詳しくその戦いの経緯を書いている。それによると、まず遠征自身がクラッススの個人的な名誉欲から行われ、元老院・民会にも反対論が強く、不吉な前兆もあったのに強行されたため、兵士の士気が上がらなかったことがあげられている。またクラッススはカエサルのもとでガリアに従軍していた息子のプブリウス(小クラッスス)に騎兵を率いてパルティアに来ることを命じ、息子に戦功を立てさせようとした。ところがプブリウスはパルティア軍を率いる将軍スレーナスの巧みな戦術に惑わされて深追いし、首を取られてしまう。戦意を無くしたクラッススにスレーナスは和議を申し入れ、それに応じて協議に出向いたクラッススを捕らえ、混乱に乗じて殺害してしまった。結果的にクラッススの遠征は無謀な失敗に終わり、同じころガリアで赫々たる戦果を上げていたカエサルと好対照になってしまった。
Episode 消防屋で財産を築く
クラッススの父は閥族派の有力者スラの副官であったが、平民派のマリウスとの戦いで、降伏することを潔しとせず、みずから死を選んだ。その遺児クラッススに対し、スラは手厚い保護を加えてむくいた。(引用)スラはこれに報いるため、遺児にマリウス派の財産を格安に手に入れさせ、消防団の組織に当たらせた。火事があるとクラッススはすぐ現場に駆けつけるが、消火に当たる前に焼けている家の持ち主と交渉して自分に譲渡させる。家主はいつでも言い値で手放した。交渉が成立しなければ消火にかからず、燃えるままに放っておく。<モンタネッリ/藤原道郎訳『ローマの歴史』 中公文庫 p.186>
Episode クラッスス、ローマを買い占める
プルタルコスは、スラはローマで自分に反抗した人を殺し、その家をクラッススに安く買い取らせたと言っている。消防団の話は出てこないが、クラッススがローマの大部分を所有するまでになったことを次のように説明している。(引用)(クラッススは)ローマの痼疾が、建物の重さと稠密度のためにおこる火災と倒壊にあることを見て取って、建築に携わる奴隷を買い入れていた。そして、この種の奴隷を五百人以上手にいれると、焼けた家や焼けた家の隣家を買い取っていった。持主たちが恐れと不安とのために安い値段で投げ出したのである。その結果、ローマの大部分が彼の所有に帰した。しかし、それ程多数の職人を抱えていても、彼自身は自分の住む家以外は何も建てず、建築好きの人は敵の助けを借りずとも、自分で滅びるものだと口癖のように言っていた。<プルタルコス/伊藤貞夫訳『プルタルコス英雄伝』下 ちくま学芸文庫 p.8>スラの保護で財産を築いたクラッススだったが、一時マリウスがローマを奪い、スラ派を大弾圧したときは、間一髪、スペインに逃れ、追っ手を避けて洞窟に難を避けたことがプルタルコスに詳しく出ている。
スパルタクスの反乱を鎮圧
クラッススは、スラの腹心の軍人として力を蓄えた。同じくスラの腹心であったポンペイウスがライバルとなった。前73年に起こった剣奴(剣闘士奴隷)のスパルタクスの反乱が、イタリア各地でローマ正規軍を破り、いよいよローマ市に迫ってくると、前71年にクラッススはローマ軍の指揮官に任命された。ところがスパルタクスはローマ全軍と正面からの衝突を避け、南進してシチリア島を目指した。そこからアフリカに渡ることを考えていたらしい。クラッスス軍は追撃捕捉して後尾部隊を殲滅してスパルタクス本陣に迫っってついにスパルタクスを自殺に追いやった。その後にスペインに派遣されていたポンペイウスがかけつけ、残された奴隷反乱軍5千を壊滅させた。ところが、ポンペイウスの「私が反乱を鎮圧した」という報せの方が早くローマに届けられた。将軍としての名声はポンペイウスの方が高かったので、その功績はポンペイウスのものとなった。このことから、クラックスはポンペイウスに良い感情をもてなくなった。<プルタルコス『同上書』 p.25>平民派寄りの執政官
クラッススはポンペイウスと共に戦勝将軍としてローマに凱旋しようとしたが、元老院は軍隊の解散を条件とて入城を認めない。元老院議員である貴族の支配に報復する機会を狙っていたローマ市民は二人を平民派の救済者として見なし、前70年の執政官選挙で二人を当選させた。こうして、もともとスラの配下の閥族派だった二人は、平民派の支持を受けて執政官となり、スラの独裁政治のもとで定められた元老院の復権策を覆し、護民官権限の復旧、貴族の陪審員独占の撤廃を定めた。民会ではキケロがリードして全員一致で賛成し、元老院ではカエサル一人が賛成したが、他はすべて反対した。第1回三頭政治
民会の支持で政権を握った二人は再び戦場に出て巨利を得て、クラッススは大富豪と言われるような蓄財に成功したが、ポンペイウスとの関係は次第に悪化した。前68年にはカエサルの財務官立候補に際して資金を貸し付け、カエサルとの関係が築かれた。さらに前60年、執政官の地位を狙うカエサルに資金面の協力を約束、そのかわり専売権を認められた。カエサルは、クラッススとポンペイウスを和解させ、その両者を加えて第1回三頭政治を成立させ、元老院の貴族政治に対抗する態勢を作った。<以上、モンタネッリ『同上書』 p.192,202>Episoce 富者の象徴となったクラッスス
クラッススの名は、後の時代まで、「富と贅沢」の象徴だった。さらに「太っている」という意味ももつようになり、富者を揶揄する言葉として用いられた。1517年にルターがヴィッテンベルク城門に張り出した「九十五ヶ条の論題」の86項に、次のような文がある。(引用)また、なぜ教皇は、財政的に今日では豊かなクラッススより富を得ているのに、貧しい信徒たちのお金ではなく、自らのお金で、この聖ピエトロ大聖堂だけでも建ててみようと思わないのか。<ルター/深井智朗『宗教改革三大文書』2017 講談社学術文庫 p.38 解説 p.44>
パルティアとの戦いで戦死
三人は、それぞれの勢力基盤としてカエサルはガリアを、ポンペイウスはイベリア半島を、そしてクラッススは東方のシリアを分け合った。ポンペイウスとクラッススは籤引きでそれぞれの勢力圏を決めた。<プルタルコス『同上書』 p.31>クラッススはパルティアの勢力が強まり、シリア・パレスティナに及んできたため、自ら遠征を企てた。この遠征には反対する人も多かったが、クラッススは、かつてミトリダテス戦争のときにポンペイウスが上げた勝利より以上の戦果を上げなければと意気込んでいた。 ユーフラテス川を越え、メソポタミアに達し、パルティア軍と遭遇し、前53年、カルラエの戦いで激戦となったが、乱戦の中で戦死した。この時、ローマ軍は軍徽章を奪われるという不名誉なこともあった。
三頭政治の一角のクラッススの不名誉な敗北は何故だったのだろうか。プルタルコスはその『英雄伝』のクラッスス伝で詳しくその戦いの経緯を書いている。それによると、まず遠征自身がクラッススの個人的な名誉欲から行われ、元老院・民会にも反対論が強く、不吉な前兆もあったのに強行されたため、兵士の士気が上がらなかったことがあげられている。またクラッススはカエサルのもとでガリアに従軍していた息子のプブリウス(小クラッスス)に騎兵を率いてパルティアに来ることを命じ、息子に戦功を立てさせようとした。ところがプブリウスはパルティア軍を率いる将軍スレーナスの巧みな戦術に惑わされて深追いし、首を取られてしまう。戦意を無くしたクラッススにスレーナスは和議を申し入れ、それに応じて協議に出向いたクラッススを捕らえ、混乱に乗じて殺害してしまった。結果的にクラッススの遠征は無謀な失敗に終わり、同じころガリアで赫々たる戦果を上げていたカエサルと好対照になってしまった。
Episoce クラックスの口に金をはめこむ
パルティアに侵入したクラッススのローマ軍は、カルラエで将軍スレーンの指揮するパルティア軍と衝突した。鎖帷子で重装備のローマ軍に対し、パルティア軍は身軽な騎兵隊を疾走させ、矢を雨のように降り注いだ。ローマ軍は総崩れとなり、クラックスも戦死した。クラックスの首はパルティアのオロデース王のもとに送られたが、王はその口に金をはめ込んで、これで一生の欲も満たされたであろうと嘲笑したという。ローマ軍6万のうち、生存者は2万、しかもその半ばは俘虜として中央アジアのメルヴに移されたという。<足利惇氏『ペルシア帝国』世界の歴史9 1977 講談社 p.212>