ガリア
ローマ時代の北イタリアからフランスにおよぶ地域の呼称。ケルト人が居住していたが、ローマからはガリアと呼ばれた。南部は前2~前1世紀にローマの属州となる。前1世紀、北部ガリアのライン川以東でゲルマン人が侵入したのを機に、カエサルが遠征、平定した。ガリア人はローマ支配に抵抗して反乱を起こしたが鎮圧された。その後属州としてローマ化がすすんだ。ローマ支配時代のガリアをガロ=ローマ時代という。
本来のガリアは、北イタリアのポー川流域(後のロンバルディア)からアルプスを越えて現在のフランスの全域を含み、その地方全域をローマ人がガリアと呼んでいた。現在の北イタリアも含んでいたことに注意。北は英仏海峡でブリテン島と隔てられ、東はライン川でゲルマニア(ゲルマン人の居住地)と、南西はピレネー山脈でイベリア半島(属州ヒスパニア)と区切られている、広大な地域である。
ガリアには、ローマの勢力が及ぶ前の前7世紀ごろからケルト人が居住していたが、ローマ人は彼らをガリア人と呼んだ。ケルト人はこの地でラ=テーヌ文化と言われる鉄器文化を形成していた。
ローマはガリアのうちアルプスより南の北イタリアを、ラテン語でアルプスのこちら側という意味の「ガリア=キサルピナ(後にチザルピーナといわれるようになる)」と呼んでいた。また、アルプスを越えた現在の南フランス一帯は、アルプスの向こう側の意味で「ガリア=トランサルピナ」と呼んだ。これらを含むのが本来のガリア=広い意味のガリアである。(右の図で黄色で示した範囲)
ガリア=トランサルピナにたいしては、ローマは前121年に征服して、属州ガリア=ナルボネンシスとした。この地域はその後、単に属州を意味するプロヴィンキアというラテン語から、現在のプロヴァンスといわれるようになる。
狭い意味のガリア こうして、前1世紀の中ごろのカエサルの時代のガリアは、ガリア=キサルピナとガリア=トランサルピナを除いた、狭い意味で使われるようになっていた。カエサルはその『ガリア戦記』の冒頭で、「ガリアは全部で三つに分かれ、そのひとつはベルガエ(ベルギー)人、二にはアクィーターニー(アキタニア)人、三にはその仲間の言葉でケルタエ(ケルト)人、ローマでガリー(ガリア)人と呼んでいるものが住む」<近山金次訳。( )は引用者。>といっている。つまり、更に狭い意味での「ガリア人」の使い方があるわけで、このようにガリアという名称は広い意味と狭い意味、さらに特定のガリア人を意味する場合の三段階(レベル)があるわけです。
すでにカエサルは、前60年に、ポンペイウス・クラッススと第1回三頭政治の盟約を結び、ガリアを勢力圏として認められ、前59年には執政官となり、前58年にガリア=トランサルピナの総督に任じられていた。
前58年、カエサルは自分の基盤であった属州ガリア=キサルピナから徴兵した兵士と、友好的なガリア人部族から集めた部隊によってガリア遠征を開始し、反ローマ部族を次々と制圧し、さらにドーヴァー海峡を渡ってブリタニア(現イギリス)にまで進出した。またライン川を越えて侵入してきたゲルマン人を追ってゲルマニアの地まで侵入した。ドーヴァー、ライン川を渡った最初のローマ軍となった。カエサルは前55年と前54年にドーヴァー海峡を渡り、ブリテン島に進出したが、ブリトゥン人の抵抗を受け、恒常的支配権を立てることはできなかった。
『ガリア戦記』 この約10年におよぶカエサルのガリア遠征の記録を、カエサル自身が著作したのが『ガリア戦記』であり、名文で知られる戦いの記録であると共に、前1世紀のガリア人・ゲルマン人などの社会に関する貴重な資料となっている。
ローマ帝国はライン川とドナウ川をその国境として、たびたびその向こう側のゲルマン人を撃とうとして軍を派遣したが、ガリアはその兵力や資材を負担させられた。この時代をガロ=ローマ時代というが、その時代に後にパリに発展するルテティアなどが建設された。また、フランス各地には水道橋として有名なガール橋などのローマ時代の遺跡が現在でも数多く残っている。
ガリア帝国 3世紀の属州ガリアは、ガリア人を主体とした軍団がゲルマン人との戦いを通じて次第に力をつけ、260~274年の間はローマ皇帝に反旗を翻し、ガリア軍団に押された将軍が独自に皇帝を称してガリア帝国と言われた。ガリア帝国は274年にローマ皇帝アウレリアヌスに滅ぼされたが、ローマ帝国の3世紀の危機に乗じた分離独立の動きだった。4世紀にはガリアを統治し、ガリアを基盤とした皇帝がローマの主導権を握った。それがコンスタンティヌス大帝であり、さらにユリアヌス帝であった。
ローマ帝国は東西分裂、西ローマ帝国の滅亡という経過の中で後退し、フランク王国は534年にブルグンド王国を併合してガリアを統一、さらにイベリア半島やライン川東部の現在のドイツ一帯まで勢力を伸ばした。こうしてガリアの地はゲルマン系フランク人が支配する地域と化したが、ローマ人のラテン文化はなお強く影響を留めている。またケルト人はブルターニュ半島の奥地などに押しやられ、現在までその文化伝統を維持している。
ガリアには、ローマの勢力が及ぶ前の前7世紀ごろからケルト人が居住していたが、ローマ人は彼らをガリア人と呼んだ。ケルト人はこの地でラ=テーヌ文化と言われる鉄器文化を形成していた。
ローマはガリアのうちアルプスより南の北イタリアを、ラテン語でアルプスのこちら側という意味の「ガリア=キサルピナ(後にチザルピーナといわれるようになる)」と呼んでいた。また、アルプスを越えた現在の南フランス一帯は、アルプスの向こう側の意味で「ガリア=トランサルピナ」と呼んだ。これらを含むのが本来のガリア=広い意味のガリアである。(右の図で黄色で示した範囲)
ガリア南部の属州化
ガリア=キサルピナは第2回ポエニ戦争(前218年~前201年)で、アルプスを越えて侵入したカルタゴのハンニバル軍に荒らされたので、その戦闘と並行してローマ軍が占領し、前2世紀前半までにはローマの属州となった。そのためガリア=キサルピナはローマ化が進み、後にはイタリアの一部になった。ガリア=トランサルピナにたいしては、ローマは前121年に征服して、属州ガリア=ナルボネンシスとした。この地域はその後、単に属州を意味するプロヴィンキアというラテン語から、現在のプロヴァンスといわれるようになる。
狭い意味のガリア こうして、前1世紀の中ごろのカエサルの時代のガリアは、ガリア=キサルピナとガリア=トランサルピナを除いた、狭い意味で使われるようになっていた。カエサルはその『ガリア戦記』の冒頭で、「ガリアは全部で三つに分かれ、そのひとつはベルガエ(ベルギー)人、二にはアクィーターニー(アキタニア)人、三にはその仲間の言葉でケルタエ(ケルト)人、ローマでガリー(ガリア)人と呼んでいるものが住む」<近山金次訳。( )は引用者。>といっている。つまり、更に狭い意味での「ガリア人」の使い方があるわけで、このようにガリアという名称は広い意味と狭い意味、さらに特定のガリア人を意味する場合の三段階(レベル)があるわけです。
カエサルのガリア遠征
アルプス以北のガリア人の部族は、ライン川の向こう側のゲルマン人の侵入に悩んでいたこともあって、ローマに服属することを望むものと、あくまで独立を望むものとが対立している状況であった。前58年、現在のスイスにいたケルト人ヘルウェティ族がゲルマン人の圧迫を逃れて西の平野部に移動を開始、カエサルは南ガリアのローマ属州がゲルマンに脅かされる恐れがあるという理由でそれを認めず、阻止しようと出撃した。ここから前58~前51年のガリア遠征が始まる。すでにカエサルは、前60年に、ポンペイウス・クラッススと第1回三頭政治の盟約を結び、ガリアを勢力圏として認められ、前59年には執政官となり、前58年にガリア=トランサルピナの総督に任じられていた。
前58年、カエサルは自分の基盤であった属州ガリア=キサルピナから徴兵した兵士と、友好的なガリア人部族から集めた部隊によってガリア遠征を開始し、反ローマ部族を次々と制圧し、さらにドーヴァー海峡を渡ってブリタニア(現イギリス)にまで進出した。またライン川を越えて侵入してきたゲルマン人を追ってゲルマニアの地まで侵入した。ドーヴァー、ライン川を渡った最初のローマ軍となった。カエサルは前55年と前54年にドーヴァー海峡を渡り、ブリテン島に進出したが、ブリトゥン人の抵抗を受け、恒常的支配権を立てることはできなかった。
ウェルキンゲトリクスの蜂起
ガリアに戻ったカエサルは、最後にガリア人(ケルト人)の全部族に結束してローマに抵抗することを呼びかけたウェルキンゲトリクスの挑戦を受けることとなる。反ローマの勢力は拡大し、カエサルは苦戦に陥ったが、前52年のアレシアの戦いでようやくウェルキンゲトリクスを捕らえ、反乱を鎮圧した。カエサルがガリア遠征に従事している間、ポンペイウスが元老院と結んで独裁的な権力を築いていた。カエサルは権力奪取の機会を狙っていたが、前49年、ルビコン川を越えてローマに侵攻し、ポンペイウス軍を追って権力を握る。『ガリア戦記』 この約10年におよぶカエサルのガリア遠征の記録を、カエサル自身が著作したのが『ガリア戦記』であり、名文で知られる戦いの記録であると共に、前1世紀のガリア人・ゲルマン人などの社会に関する貴重な資料となっている。
ローマの属州支配
ローマ帝国を成立させたアウグストゥスの時、残るガリアが、北からベルギカ、ルグドゥネンシス、アクィタニアの三つの属州に分けられ、すでにあったナルボネンシス(プロヴァンス地方)とあわせて、現在のフランスは4つのローマ属州として支配されることになった。それ以後、ガリアのローマ化はすすみ「ローマの平和」が及んで、族長層にはローマ市民権が与えらたが、部族員には税負担が課せられた。ローマ帝国はライン川とドナウ川をその国境として、たびたびその向こう側のゲルマン人を撃とうとして軍を派遣したが、ガリアはその兵力や資材を負担させられた。この時代をガロ=ローマ時代というが、その時代に後にパリに発展するルテティアなどが建設された。また、フランス各地には水道橋として有名なガール橋などのローマ時代の遺跡が現在でも数多く残っている。
ガリア帝国 3世紀の属州ガリアは、ガリア人を主体とした軍団がゲルマン人との戦いを通じて次第に力をつけ、260~274年の間はローマ皇帝に反旗を翻し、ガリア軍団に押された将軍が独自に皇帝を称してガリア帝国と言われた。ガリア帝国は274年にローマ皇帝アウレリアヌスに滅ぼされたが、ローマ帝国の3世紀の危機に乗じた分離独立の動きだった。4世紀にはガリアを統治し、ガリアを基盤とした皇帝がローマの主導権を握った。それがコンスタンティヌス大帝であり、さらにユリアヌス帝であった。
ゲルマン人の移動
4世紀後半にゲルマン人の大移動が始まると、多くのゲルマン人諸部族がライン川を越えてローマ領ガリアに侵入してきた。彼らは先住民のケルト人と支配者ローマ人を次第に駆逐し、5世紀にブルグンド王国とフランク王国というゲルマン系諸国が生まれた。ガリア南西部からイベリア半島に変えての一帯には西ゴート王国が成立した。ローマ帝国は東西分裂、西ローマ帝国の滅亡という経過の中で後退し、フランク王国は534年にブルグンド王国を併合してガリアを統一、さらにイベリア半島やライン川東部の現在のドイツ一帯まで勢力を伸ばした。こうしてガリアの地はゲルマン系フランク人が支配する地域と化したが、ローマ人のラテン文化はなお強く影響を留めている。またケルト人はブルターニュ半島の奥地などに押しやられ、現在までその文化伝統を維持している。