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開封

後梁以降の五代と北宋の都。河南省の古都でかつての汴州。黄河と大運河の交差する要地にあり、商業上の繁栄した都市であった。1126~27年の靖康の変で金に占領され、衰退した。

開封 GoogleMap

 かいほう、とよむ。現地の読みではカイフォン。現在の地名は河南省開封市。隋の煬帝が建設した大運河の拠点の一つであり、黄河中流域の華北と長江流域の江南地方を結ぶ交通の要地で、物資の集散地となって大いに繁栄した。
 後梁を建国した朱全忠(べん)を首都と定め、東都開封府として以来、五代(後唐を除く)の各王朝の都であった。引き続き宋(北宋)の都となり東京開封府(とうけいかいほうふ)といわれた。この地は古く汴州といわれたので汴京(べんけい、べんきょう)とも言われる。

開封の繁栄

 唐の長安洛陽などの都市は、官営の「市」だけで取引が行われ、それに参加できる商人も「行」という同業組合に属していなければならず、また市での営業は昼間しか認められなかったが、宋代の都市では同業組合の支配力は衰え、市以外にも自由に商店を開くことが出来るようになり、また盛んに夜市も開かれるようになった。そのような都市には人口が集中し、貨幣経済が発展した。その代表的な都市が開封である。
(引用)北宋の首都の開封は、大運河と黄河をつなぐ地点にある商業都市であり、長安が遊牧地帯には近いが中国のなかでは西北の隅にあったのと比較すると、中国内部の東西南北の交通の要に位置していた。城壁の中の道路は整然たる碁盤の目状ではなく、入り組んだ道が主流であり、また城内には運河が掘られていた。長安では、道路で区切られた一つ一つの区画が壁で囲まれていたが、開封ではそのような壁はなく、商店は直接道路に面していた。<岸本美緒『中国の歴史』2015 ちくま学芸文庫 p.129-130>

『東京夢華録』

 宋(北宋)の都開封の栄華を物語った書物が『東京夢華録』(とうけいむかろく)であり、絵画が『清明上河図』である。
 『東京夢華録』は、南宋になって孟元老という人が北宋の時代の開封の様子と行事や習慣を詳細に描写した回想録である。次の文は宮城の東南の角を中心として、その東側の繁華街を描いている。
(引用)宣徳楼から東のかた、東角楼へと行けば皇城の東南角である。十字街を南に行けば薑行(生姜市場)で、高頭街を北へ行き、紗行(薄絹市場)から東華門街・晨暉門・宝籙宮をへて旧酸棗門までの道筋は最も店舗がにわしかった。……東に行くと潘楼街だ。通りの南は鷹店といって、タカやクマタカを商う旅商人ばかり、その他はみな真珠・反物・香料・薬物を商う店だった。南に通ずる通りのひとつは界身といって、ずらりと金銀や色とりどりの絹を取引店が立ち並び、どっしりとした建物、広い間口の店々は、見るからに堂々たる有様で、取引ごとに千万もの金品を動かし、人々の耳目を驚かした。……<松枝茂夫編『記録文学集』平凡社中国古典文学大系より><岸本美緒『中国の歴史』2015 ちくま学芸文庫 p.132-133>

『清明上河図』

清明上河図

清明上河図

 『清明上河図』は北宋の画家、張択端が開封の繁栄を描いた絵巻物で、清明とは3月3日(現在の4月初め)のこと。市民たちが街に出て春を祝う日で、開封の賑わいを細密に描いている。酒楼(レストラン)の本店(正店)、軒先の露店に行き交う人々の服装が一人一人描き込まれていて、当時の情景が手に取るように判る、貴重な資料である。
 右の『清明上河図』の一画面は、運河にかかる虹橋。当時、橋の上に店を出すことは禁止されていた。その重みで橋が沈下すると船が通れなくなるからだ。開封にくる江南からの物資は莫大な量で、年間600万石にもなる。しかもこの図に見るようにかなり大きな船で運ばれる。その船が通れなくなれば大変なので出店禁止令が出されているが、人々はそんな禁令はどこ吹く風と橋の上に陣取って屋台を出しているのだ。<伊原弘『中国中世都市紀行』1988 中公新書 p.130>

参考 旅人の見た開封

 宋の開封は人口約100万、さまざまな人々が住み、訪れた。
(引用)はじめて見る開封の景色はなにもかも珍しかっただろう。運河、とりわけ汴河を通行する沢山の船は、人々を驚かせたはずである。その混雑ぶりに驚きつつ、入城すると、そこはもう世界有数の大都会で、宏壮な建物が並んでいる。荷物を宿においた人々は、なにをおいても城内のそこかしこに出かけたことだろう。例えば宮城。日本からの旅人である成尋もただちに宮城のまわりを歩いている。「我が国の御所のごとし」。これが彼の感想である。実際、宋の宮殿は小さい。『水滸伝』を読むと、密かに忍び込んだ宋江の手のものの柴進がまるで天国かなにかのように感嘆しているが、じじつはそれほどでもない。……<伊原弘『同上書』 p.130>
 経済的に繁栄し、人々が密集すれば、盛り場ができる。これも定石どおりのことである。……開封が真に開封らしい姿を見せるのも歓楽街であった。これは瓦子(がし)とよばれる。ほかにも瓦、瓦市、瓦舎などとよぶ。人が集まるときには瓦のようにひしめき、散るときは瓦のように砕けるからというのが語源という。……<伊原弘『同上書』 p.131>
 その他、同書には開封の年中行事や、水滸伝の舞台となった街の様子などが紹介されている。

一時、金の都となる

 1126~27年の靖康の変で東北地方に興った女真のに占領され、北宋が滅亡してから開封の衰退が始まった。北宋の残存勢力は南方に逃れて建国した南宋は、1138年に長江下流の臨安(杭州)を都とし、金は1153年に都を燕京(現在の北京)に移したので、開封は政治的中心地ではなくなった。
 金は華北を支配するに当たり、当初は二重統治体制をとっていたが、次第に漢民族の制度を採り入れるようになり、いわゆる漢化が進み、むしろ北方の遊牧民との対立を深めていった。そのようなとき、北方の遊牧社会に登場したのがモンゴル人であった。1211年、チンギス=ハンが金に対する攻撃を開始、金はやむなく1214年に都を開封に移した。1230年、次のオゴタイ=ハンが大軍を率いて開封に迫り、激戦となった。開封は多くの難民が餓死する惨状となり、1232年についに落城し、逃れた金王朝は間もなく滅亡した。

開封の衰退

 元代には新たに江南と北京を直接結ぶ運河が建設され、開封は経済の繁栄から取り残されていった。明末には黄河の大洪水で泥土の下に埋もれてしまった。現在の開封市は宋の時代のものではなく、清代に建設されたものである。→ 宋代の商工業の発達

長安と開封の比較

開封の市街図 開封地図
 東京(とうけい)と言われた開封は、人口が60~70万人で、世界でも有数な都市であった。
 唐の都長安と比較して、どのような違いがあるか考えよう。
  1. 長安と同じく、城壁に囲まれた城壁都市である。大内を中心として、内城、外城がある三重構造。
  2. 長安の碁盤の目のような区画がない。長安は整然とした坊市制で区画されていたが、開封ではより広い範囲を含む廂に区画されている。
  3. 商業区画は長安では東西の市だけであったが、開封では市場や繁華街が広がっている。なお、長安の市は昼しか営業できなかったが、開封では図のように夜市や暁市が開かれた。
  4. 開封では汴河を通じて外の商業網に通じていた。水路は実際にはさらに多く張り巡らされていた。
  5. 開封の市内にある瓦市(瓦肆)とは、娯楽施設で、戯曲、雑伎、武術、講談などが演じられていた。
(上図は『中国中学校歴史教科書』明石書店 p.452 をもとに作成した)

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書籍案内

伊原弘
『中国中世都市紀行』
1988 中公新書

岸本美緒
『中国の歴史』
2015 ちくま学芸文庫