イタリア政策
歴代の神聖ローマ皇帝(ドイツ王)がイタリア経営に熱心であったこと。そのためドイツは諸侯が分立し、イタリアは統一が遅れたとされる。
オットー大帝がローマで戴冠して以来、10~13世紀の神聖ローマ帝国の神聖ローマ皇帝は、イタリアを支配しローマで戴冠することをめざして出兵することが多く、本国のドイツをおろそかにする傾向があった。
これらの神聖ローマ皇帝はローマ皇帝を名乗る以上、イタリアを支配し、さらにかつてのローマ帝国のように地中海をわが海とすることを望んだのである。その伝統は、後のハプスブルク家やヒトラーに継承される、ドイツ・オーストリアの野望があったものと思われる。イタリアの分裂 の要因となった。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、1158年から1178年にかけて、4回にわたってイタリア遠征を行った。これに対して、北イタリアの諸都市はロンバルディア同盟と提携して戦い、1176年のレニャーノの戦いでは都市同盟側が勝利した。フリードリヒ1世は都市同盟側と和解し、都市国家(コムーネ)の自治を正式に承認せざるをえなかった。
これらの神聖ローマ皇帝はローマ皇帝を名乗る以上、イタリアを支配し、さらにかつてのローマ帝国のように地中海をわが海とすることを望んだのである。その伝統は、後のハプスブルク家やヒトラーに継承される、ドイツ・オーストリアの野望があったものと思われる。
皇帝と教皇の対立
また、神聖ローマ皇帝は11世紀以来、ローマ教皇との間で聖職叙任権闘争を展開した。この対立が教皇党(ゲルフ)と皇帝党(ギベリン)という神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、1158年から1178年にかけて、4回にわたってイタリア遠征を行った。これに対して、北イタリアの諸都市はロンバルディア同盟と提携して戦い、1176年のレニャーノの戦いでは都市同盟側が勝利した。フリードリヒ1世は都市同盟側と和解し、都市国家(コムーネ)の自治を正式に承認せざるをえなかった。
フリードリヒ2世
皇帝にとっては北イタリアの豊かな経済力がねらいであったが、次第に自治都市の抵抗、反撃を受け、教皇とも対立するようになる。典型的なのはシュタウフェン朝のフリードリヒ2世(皇帝1220~1250)で、彼はシチリア島に生まれ、ドイツ王としては8年間しかドイツに滞在せず、残りはシチリア島のパレルモを拠点に神聖ローマ皇帝としてイタリアを支配しようとした。イタリア戦争
15世紀末~16世紀には、ハプスブルク帝国の皇帝によるイタリア進出と、それに対抗するフランス王の間で、長期にわたってイタリア戦争が展開された。また、スペインもナポリ王国やシチリア王国をめぐってフランスなどと争い、イタリアの国家統一は19世紀後半まで待たなければならなくなった。 → ルネサンス期のイタリア