印刷 | 通常画面に戻る |

ケルン

ドイツのラインラントの都市であるが、もとはローマ帝国が建設した植民市。中世には大司教座が置かれ、商業都市としても発展した。ケルン大聖堂は代表的な中世ゴチック建設である。

ローマの殖民市

ケルン GoogleMap

 ライン川中流ラインラントの、現在ドイツの大都市であるケルンの起源は、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの盟友であったアグリッパが属州ガリア総督であった時、ウビイ族という部族を誘ってライン川西岸に集落をつくらせたことに始まる。その場所に後にローマの退役兵が入植した。町は発展して、後50年に植民市、つまりコロニアの地位を得ている。最盛時、ケルンの町には3万人が住み、フォルム(広場)や浴場などの公共施設や軍司令部、神殿などがあった。現在、有名なケルン大聖堂に隣接するローマ=ゲルマン博物館には、ローマ時代のケルンの繁栄を偲ばせる遺物がたくさん展示されている。第二次世界大戦中に偶然発見されたディオニュソス神を描いた床モザイクや、この町の有力市民ポブリキウスの、基壇からの高さが5メートルに達する記念物などから、当時の豊かな暮らしぶりが想像され、圧倒される。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.18>

ケルンという地名

 ライン川中流の北端にあたるこの地域は、カエサルのガリア遠征のときに軍事的中心となった。カエサルが引き揚げたあと、アグリッパ、トルースス、ゲルマニクスなどのローマの将軍たちが交代で遠征軍司令官として統治した。その間にこの地は下ライン地方の軍事的、経済的な支配の拠点となっていった。紀元50年頃この土地に、Colonia Claudia Agrippinensium という名がつけられた。「クラウディウス帝の御代の植民市アグリッピナ」という意味の長い名前だが、アグリッピナとはクラウディウス帝の妃で、ゲルマニクスの娘としてこの地に生まれていた(註 父はゲルマニクス、母はアグリッパの孫)。彼女自身もこの地がたいへんに好きでここでの滞在を楽しみにしていたと言われる。この地名は長すぎたので頭文字だけをとって C.C.A.A. と記されていたが、時とともに第一の文字 Colonia (植民市)だけが残り、やがてドイツ語の Köln になった。つまり、もとはローマの将軍の娘の名前がついていたのだが、このアグリッピナは実は大変な女性で、帝政ローマを揺るがす存在だった。あのネロ帝の母親だったのである。<笹本駿二『ライン河物語』1974 岩波新書 p.73,116-127>

Episode 「ケルンの水」オー=デ=コロン

 ケルンの英語名は Cologne というが、殖民市を意味するコロニア colonia 由来する。また化粧水のオー・デ・コロン eau de Cologne は「ケルンの水」の意味で、やはりコロニアに由来する。1709年、ケルンで世界最初に製造販売された芳香品の一つで、日本でも明治時代から広く使われている。

大司教座都市ケルン

 ケルン教会は中世ドイツにおけるカトリックの中心地で大司教がおかれ、ケルン大司教は神聖ローマ帝国の皇帝選出権をもつ七人の選帝侯の一人でもあった。その象徴的な大建築であるケルン大聖堂は、1248年に建築が始まり、たびたび中断されながら1880年に完成した、代表的ゴシック様式建築である。
 同じラインラント地方には、七選帝侯の筆頭のマインツ大司教、同じくトリール大司教が置かれ、ドイツのカトリック教会の中心的役割を持っていた。

大司教からの独立

 ケルンは大司教を都市君主としていただく都市として発展し、大司教の保護下にあったが、12世紀ごろから市民の経済活動が活発になると、市民は大司教支配をむしろ圧政と束縛と感じるようになり、たびたび反攻するようになった。時には市民が暴動を起こすこともあったが、当初は大司教側の武力で抑えられていた。しかし1288年にはケルン市とその同盟軍と大司教軍が戦い、市民側が勝利し、大司教から独立するという事態となった。こうして大司教の保護を離れたケルンは、自ら皇帝の直属する帝国都市であると自称するようになった。ケルンが公式に帝国都市となるのは15世紀であったが、それ以前に事実上の帝国都市となっていたと考えられる。
ハンザ都市としてのケルン ケルンはリューベックやハンブルクなどの北海・バルト海につながる商業都市とも取引し、またフランドルやイングランドとも活発に貿易活動を行っていたので、ハンザ同盟に加盟していたが、ハンザ都市としてリューベックなどに従うことはなく、その総会にもあまり出席しないなど、独自の道を歩んだ。その点はハンザ諸都市が強固な同盟関係を結んでいたわけではないことを示している。<高橋理『ハンザ「同盟」の歴史』2013 創元社 p.84-86>