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バーブル/バーブル=ナーマ

ティムール帝国王家の一員に生まれ、アフガニスタンのカブールから北インドに侵攻し、1526年にパーニーパットの戦いでロディ朝を倒し、ムガール帝国を創始した。自伝『バーブル=ナーマ』を著す。

 生没1483~1530年。本名ザヒール=アッディーン=ムハンマド=バーブル。ティムールの5代の孫である中央アジアのフェルガナの君主の子としてアンディジャンに生まれた。母方はモンゴル帝国のチンギス=ハンの次男チャガタイ=ハンの子孫で、モグーリスタン=ハン国の王女であった。つまり、バーブルは「内陸アジアが産んだ二人の世界征服者、ティムールとチンギス=ハン両者の血を引く、誇り高き王子であった」ことになる。民族としてはモンゴルの血筋を引くトルコ系民族であり、トルコ語を話し、ペルシア語・アラビア語にも通じていた。彼が創始した国家も、ティムール帝国の後継国家であると同時に、インドでは「モンゴル人の国」の意味で「ムガル帝国」と言われた。

サマルカンドからカーブルへ

 バーブルは11歳の時、父が事故死したためフェルガナの君主となり、一族間の争いの中で生き残って、ウズベク人シャイバニによってティムール帝国が滅亡すると、その再興をめざしてサマルカンドを二度にわたって奪還した。しかし、シャイバニ朝と抗争は激しく、1504年、21歳の時にサマルカンドを追われて南のアフガニスタンのカーブルに移り、そこに小王国を築いた。その後、カーブルを拠点にしばしば肥沃な地をねらって北インドに侵入し、勢力を扶植した。

北インドへの侵攻 ムガル帝国の創始

 1526年、43歳になっていたバーブルは、パーニーパットの戦いでデリー=スルタン朝の最後の王朝ロディー朝の王イブラーヒームの軍を破り、デリーに入城しムガル帝国を建国し、初代統治者となった(在位1526~1530年)。パーニーパットの戦いでは騎兵に加えて鉄砲隊を編成して、勝利を得た。さらに1527年、ヒンドゥー教徒のラージプート連合軍をハーワヌの戦いで破り、支配権を広げた。
 1530年、47歳のとき、アグラで死去した。その遺体はデリーやアグラではなく、かつての根拠地カーブルに埋葬された。バーブルによって創始された段階のムガル帝国の支配領域は現在のアフガニスタンの東部カーブルと、北インドのデリー、アグラ周辺に限られ、またその統治も5年という短期で終わった。ムガル帝国が大帝国となるのは第3代のアクバルの時代、またその支配がインドのほぼ全域に拡大されるのはアウラングゼーブの時代である。

『バーブル=ナーマ』

 バーブルは優れた軍事指導者であったが、母語であるチャガタイ=トルコ語の他に、ペルシア語・アラビア語に深い教養を持っていた。彼がチャガタイ=トルコ語で書いた日記風の回想録『バーブル=ナーマ』は、重要な資料であるとともに、トルコ語文学の傑作ともされている。『バーブル=ナーマ』とは「バーブルの書」の意味。「フェルガナ」「カーブル」「ヒンドゥスタン」の三部からなる。
 『バーブル=ナーマ』は、間野英二氏(京都大学名誉教授・龍谷大学教授)によって日本語に完訳され、平凡社の東洋文庫に収録され、だれでも読めるようになった。全3巻。素晴らしい業績だと思う。また間野氏は大著『バーブル=マーナの研究』(全4巻、松香堂)を刊行しており、「バーブルとその時代」の研究で2004年の日本学士院賞を受賞した。2013年には世界史リブレットの1冊として『バーブル ムガル帝国の創設者』を出版しているので、たやすくその業績の一端に触れることができることとなった。

Episode 禁酒に悩むバーブル

 『バーブル=ナーマ』は日録風の自叙伝であるが、人間バーブルの日常生活や感情、その時々の心情が吐露されており、文学書としても優れている。また戦いでの敵の捕虜に対する残虐な仕打ちなど、時代の制約を受けた権力者の生々しい行為が淡々と記されており、興味深い。間野英二氏の紹介するその一部、酒についての一文をあげよう。
(引用)少年時代には飲みたいとは思わなかった。酒の陶酔境をなお知らず、私の父がときどき私に酒を勧めたときにも、なんやかやといい訳をいって飲酒の禁を犯さなかった。・・・のちに、青年のいっぱん的にもつ強い欲望と、私の個人的にもつ欲求から酒を飲みたいという気持ちが強くなったときも、私にはだれ一人として酒を勧めてくれる者がいなかった。というより、私の心のなかにある酒に対する欲望を知っている者は一人もいなかった。私の心は酒を求めていたが、このような、従来してこなかったことを自分自身で始めることは難しかった。<間野英二『バーブル ムガル帝国の創設者』2013 世界史リブレット人46 山川出版社 p.38>
 このようなモヤモヤした飲酒の欲望は、やがてサマルカンドに続いてヘラートを占領したときに、バーブルに“飲酒の決意”をさせることになる。また、女性に惹かれながら揺れ動く若き日のバーブルの心情も自ら吐露している。16世紀のアジアでこのような自伝を残した権力者がいたことには驚かされる。