リスボン
ポルトガルの首都。大航海時代の15世紀末から16世紀末まで、香辛料貿易などの商業港として栄えた。
大航海時代にポルトガルの首都として栄えた。ポルトガルの発音ではリスボア、またはリスボアゥンとも表記する。テージョ川(タホ川)の河口に位置し、大西洋に面した良港。その始まりは、ローマが建設したオリシボにさかのぼる。イスラーム勢力のイベリア半島への侵入により、この地も後ウマイヤ朝の支配下に入ったが。レコンキスタが進行するなか、1147年にポルトガル王によって征服され、1255年からはポルトガル王国の首都となる。
15世紀には、ポルトガル王国の皇太子エンリケによって展開された海外進出の拠点となった。1498年のヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達によってリスボンはインド航路の起点となり、香辛料貿易によってアジアからの香辛料が直接輸入される一大貿易港として発展した。1500年にはカブラルがブラジルに到達し、新大陸への進出も始まると、リスボンは新大陸との貿易でも繁栄した。ポルトガルと新大陸進出で競合したスペインの貿易港の拠点はセビリアであった。
また、この船にはミゲルという名の日本人が宣教しフランシスコ=ロドリゴとともに乗っていた。ミゲルは難破船から脱出してポルトガルの地を踏むことができたようだが、その後日本に帰国する途中、中国で病死したと伝えられている。難破船の中からは日本の刀の鍔も見つかっている。この沈没船はポルトガルの香辛料貿易が17世紀の初めにまだ繁栄の余波を残していたことを、実際の証拠となっている。<ランドール・スズキ『沈没船が教える世界史』2010 メディアファクトリー新書 p.28-32>
それでも18世紀のポルトガルは植民地のブラジルでの金鉱の発見、コーヒー栽培の成功などが続き、植民地大国(海洋帝国)としての威勢を保ったので、リスボンの繁栄も維持されていた。しかし、絶対王政と新興ブルジョワジーの対立という新たな問題も表面化し、フランスの影響を受けた啓蒙的な政治家ポンバル侯爵による上からの改革が始まると、リスボンにも変革の気運が起こった。そのようなときにリスボンを大地震が襲い、大きな犠牲を出したが、それをきっかけにポンバル侯爵のめざす都市改革が実行されるという事態となった。
リスボン 1755年の大地震
<金七紀夫『ポルトガル史』p.160>
15世紀には、ポルトガル王国の皇太子エンリケによって展開された海外進出の拠点となった。1498年のヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達によってリスボンはインド航路の起点となり、香辛料貿易によってアジアからの香辛料が直接輸入される一大貿易港として発展した。1500年にはカブラルがブラジルに到達し、新大陸への進出も始まると、リスボンは新大陸との貿易でも繁栄した。ポルトガルと新大陸進出で競合したスペインの貿易港の拠点はセビリアであった。
商業革命 世界貿易の中心へ
リスボンに集積されたインドや東南アジアからの香辛料は北西ヨーロッパのアントウェルペンにもたらされ、ヨーロッパ各地に売りさばかれた。16世紀にリスボンやアントウェルペンが香辛料貿易で栄えるようになったため、商業の中心地がそれまでの地中海沿岸の北イタリアから大西洋岸の商業港に移った。この変化を商業革命といい、リスボンはその時代の象徴として繁栄した。大航海時代はリスボンを、まさに世界経済の中心都市へと押し上げたのだった。Episode リスボン港で見つかった沈没船
1994年、リスボン港のテージョ川河口を調査していたリスボン国立博物館考古学チームは、水深10mの海底で一隻の沈没船を発見した。この全長約40mのカラック船(ポルトガルではナオといわれていた)の船底から砂に埋もれた大量の胡椒が発見された。そこでこの沈没船は「ペッパーレック(胡椒難破船)」と呼ばれることとなった。このペッパーレックからは胡椒だけでなく、生姜、シナモン、ナツメグ、クローブといった香辛料や、金のビーズ、珊瑚などの装飾品、日本や中国の陶磁器(後に万暦帝時代のものと判明)なども見つかった。文献によってこの船はノッサ・セニョーラ・ドス・マルティ号というインドとポルトガルを往復する商船で、1606年9月14日にインドから戻る途中、リスボン沖で暴風雨に遭い、あと200mというところで沈んでしまったらしい。乗っていた200人以上が死亡、大量の胡椒が海岸を黒く埋め尽くしたという。積荷は王家の所有物なので役人に回収が命じられたが、民衆は海岸に殺到してお宝である胡椒を拾ったという。また、この船にはミゲルという名の日本人が宣教しフランシスコ=ロドリゴとともに乗っていた。ミゲルは難破船から脱出してポルトガルの地を踏むことができたようだが、その後日本に帰国する途中、中国で病死したと伝えられている。難破船の中からは日本の刀の鍔も見つかっている。この沈没船はポルトガルの香辛料貿易が17世紀の初めにまだ繁栄の余波を残していたことを、実際の証拠となっている。<ランドール・スズキ『沈没船が教える世界史』2010 メディアファクトリー新書 p.28-32>
リスボンの後退
しかし、ポルトガルは、1580年にスペインに併合され、1640年に独立を回復る間、政治的な安定が得られず、また17世紀以降はオランダとイギリスという新興勢力が台頭、インド・東南アジアでも後退を余儀なくなくされ、世界貿易の中心地はオランダのアムステルダムとイギリスのロンドンなどに移ったため、リスボンはかつてのような世界経済の中心としての役割は失っていった。それでも18世紀のポルトガルは植民地のブラジルでの金鉱の発見、コーヒー栽培の成功などが続き、植民地大国(海洋帝国)としての威勢を保ったので、リスボンの繁栄も維持されていた。しかし、絶対王政と新興ブルジョワジーの対立という新たな問題も表面化し、フランスの影響を受けた啓蒙的な政治家ポンバル侯爵による上からの改革が始まると、リスボンにも変革の気運が起こった。そのようなときにリスボンを大地震が襲い、大きな犠牲を出したが、それをきっかけにポンバル侯爵のめざす都市改革が実行されるという事態となった。
リスボン大地震と再建
リスボン 1755年の大地震
<金七紀夫『ポルトガル史』p.160>
(引用) 1755年11月1日朝、リスボン及び南部アルガルヴェに直下型の大地震が起こった。リスボンではテージョ川の水は津波となって町に押し寄せ、地震の直後に起きた火事は六日間都心部を焼き尽くした。川岸の王宮、わずか数ヶ月前に落成したばかりの豪華なオペラ劇場、贅を尽くした貴族の館など一万戸の建物が一瞬にして灰燼に帰した。犠牲者の数は一万数千人に上った。
ポンバル港の再建計画 地震が起きるや(国王から全権を委ねられた)ポンバル侯は精力的に負傷者の手当、ペストの予防、死者の埋葬、犯罪の防止など救援活動を指導する一方、早々に都市再建計画の構想を打ち出して、民間人による勝手な建設工事を厳禁した。・・・再建計画が発表されると、地主はその計画に基づいて建物を建て、5年以内に建設できない者は、他人にその権利を譲渡しなければならなかった。この措置によって多くの新興ブルジョアたちが都心に土地を手に入れた。街は碁盤の目状に区画され、テージョ川に面した王宮広場はその名も商業広場と変わり、彼の存命中ついに王宮は建設されることはなかった。貴族の館は山の手においやられ、建物には貴族の身分を示す紋章を取り付けることが禁止された。教会も例外なく他の建物と同じ高さに揃えられた。こうして今日見られるように、リスボンの旧市街はいわゆるポンバル様式に統一された。その都市計画はまさに啓蒙主義者ポンバル侯爵の社会観、世界観の反映であった。<金七紀夫『ポルトガル史』1996 彩流社 p.160>