アメリゴ=ヴェスプッチ
コロンブスと同時期の大航海時代、フィレンツェ出身でスペインに渡り、何度かの航海を行い、到達した地を探検して新大陸であることを明らかにした。新大陸に「アメリカ」の地名が付いたのは、彼の名に由来するといわれている。
大航海時代の航海者の一人、イタリア人のアメリゴ=ヴェスプッチ Amerigo Vespucci は、数回にわたって大西洋を航海して南北に連なる広大な陸地を探検し、コロンブスが到達したのはアジアの一部なのではなく、「新大陸」であることと主張した。1507年にドイツ人地理学者ヴァルトゼーミューラーの作成した世界地図で新大陸にアメリゴに因んで「アメリカ」という呼称を与えたことから、アメリカ大陸といわれるようになった、と説明されている。しかし、その航海の正確な記録が無いことから、その航海について事実では無いのではないかという疑義が当時から存在し、そのため彼を新大陸の命名者としてはふさわしくないと批判する人びとがあった。現在では、四度の航海の一部には疑わしものがあるが、彼が南米大陸沿岸に到達し、詳しく調査したことは事実であると考えられている。<以下、主として色摩力夫『アメリゴ・ヴェスプッチ』1993 中公新書/篠原愛人『アメリゴ=ヴェスプッチ』2012 清水書院 による>
第1回航海 1497年5月~98年10月、スペイン王フェルナンドの派遣した船団に天文地理学者として参加。カディスを出航し、カナリア諸島から西に進み、カリブ海に入り、現在のコスタリカに達し、ユカタン半島からメキシコ湾沿いに北上、フロリダ半島を迂回して現在のチェサピーク湾付近に達する。そこから大陸を離れ、途中イティ島(現在のバミューダ島か)で現地人と交戦、222名の現地人を奴隷として連れ帰った。
第2回航海 1499年5月~1500年9月、スペイン王の船団に航海士として同乗、カディスを出航し、ヴェルデ岬から西に向かい、ブラジル北部と思われる陸地に到達。東南東に向ったが潮流に阻まれ北西に進路を変え、アマゾン河口を監察し、トリニダード島からカリブ海岸を西に進みベネズエラのパリア湾に至り、この地が広大な大陸であることを知った。エスパニョール島に滞在した後、カディスに帰着。
第3回航海 1501年5月~1502年9月、ポルトガル王マヌエル王から招請を受けてその船団に同乗(船団指揮官ではない)。リスボンを出航して南下し、アフリカのギニア海岸カーボ=ヴェルデでインド遠征から帰る途中のカブラル(インドをめざす途中、1500年にブラジルに到達していた)と遭遇した。そこから西に向かい、難航の末、ブラジル東岸に到着。アメリゴは途中から船団指揮権を与えられ、トルデシリャス条約の境界線を越えてブラジル海岸線に添って南南西に進み、現在のアルゼンチン海岸をさらに南下、南緯50°付近まで行ったが暴風雨と極寒のため南下を断念し、引き返した。そのため、南米大陸の南端を迂回する航路(後のマゼラン海峡)を発見するには至らなかった。
第4回航海 1503年5月~1514年9月、ポルトガルが非公式に派遣した船団に加わる。シェラレオネから南南西に向かったが、船団が離散、アメリゴはその中の1隻を率いて単独でブラジルのバイアに到着。さらに南に進み、サン=ヴィセンテ付近に上陸して砦を建設し5ヶ月滞在したが、後続がないため放棄して帰国した。
『新世界』の刊行 アメリゴ=ヴェスプッチの航海は『四度の航海』として彼の書簡という形で刊行された。1503年頃刊行された『新世界』も同じく書簡という形で発表され、彼の到達した土地はコロンブスのいうようなアジアの一部ではなく、「新大陸」であることを主張した。
しかし、アメリゴの航海は不思議なことにスペイン・ポルトガルの公式記録には記載されておらず、また根拠となる『四度の航海』と『新世界』もアメリゴ自身の自筆本がないことから、当初から疑わしいとされていた。極端な説は、アメリゴは新大陸に自分の名前を付けたいがため、航海の時期や内容をでっち上げ、その名誉をコロンブスから奪ったとさえわれた。
その後もアメリゴの航海には否定的な見解が続き、19世紀初頭のドイツの高名な地理学者フンボルトはラス=カサス神父の糾弾には根拠がないことを明らかにしたが、アメリゴの第一回航海は架空のものとする見解を発表した。そのため、新大陸を「アメリカ」と命名したのも“錯誤”に過ぎない、と評価されるようになっていった。
どうやらアメリゴ=ヴェスプッチを「名誉欲から新大陸発見を偽造したほら吹き」というのは、それこそ名誉を傷つけるもので誤っているようだ。かといって彼はコロンブスやマゼランのような本格的な「航海者」というイメージではなく、イタリア内陸のフィレンツェ出身でルネサンスの天文学や地理学に関心を持つ学者といった風貌を持ち、スペインに渡って新航路をめざす船団に乗り組んだのも40歳を過ぎており、その情熱は名誉心よりも好奇心に源泉があったようだ。その好奇心から、新しい土地に上陸して現地を見、現住民と接することによって彼はこの地を「新世界」と断定した。
トマス=モア『ユートピア』への影響 アメリゴ=ヴェスプッチの著作として発表された『四度の航海』は当時広くヨーロッパで読まれた。トマス=モアが1516年に発表した『ユートピア』は、理想郷であるユートピアを実際に見たのは、アメリゴ=ヴェスプッチの航海に同行したラファエル=ヒュトロダエスという人物とされ、彼がモアに語った話として記述されている。モアが理想社会としてあげた要素は、アメリゴの伝えた新大陸の知見に触発されたものであった。<篠原愛人『同上』p.176>
アメリゴ=ヴェスプッチ
アメリゴ=ヴェスプッチはコロンブスより3歳若く、1454年に北イタリア内陸のフィレンツェで、公証人の家に生まれた。ヴェスプッチ家はメディチ家とも交流のある名門で、ボッティチェリの『春』や『ヴィーナスの誕生』のモデルとなったシモネッタという女性もその一族の出であった。アメリゴの周辺にも外交官や地理学者になったものもあり、高い人文主義的教養をもつ家庭環境にあったらしいが、コロンブスと異なりアメリゴは遠洋航海とは無縁な生活を送っていた。1491年頃、メディチ家の代理人ベラルディ家に仕えてスペインのセビーリャに移ると、ベラルディ家がコロンブスの航海に出仕した関係から、コロンブスの第2回目の航海の準備に協力し、新航路の開拓に興味を持つようになったと思われる。ようやく43歳になって、スペイン王の派遣した船団で最初の航海に出たが、それも指揮者としてではなく、天文学・地図作製者として加わったものであった。その後、数回にわたり大西洋を横断する航海を行い、航海者として知られるようになり、1499年~50年にも新大陸探検を行った。1501年にはポルトガルに招請されてリスボンに移り、王室主催の船団に同乗して西回り航海を試みたが、すでにポルトガルではヴァスコ=ダ=ガマがインド航路の開拓に成功し、主力は東廻り航路をとるようになった。ポルトガルが東廻りで香料諸島に到達する勢い示したことに焦ったスペインのフェルナンド王は、1505年、アメリゴらを招き、西回り航路の開拓を急ぐこととなった。1508年には航海士総監(首席航海士)に任じられ、航海士の育成、地図の作成などに従事し、スペインの海洋進出の遅れを取り戻すのに盡力した。もう一度航海を計画したが果たすことができず、1512年に死んだ。アメリゴ=ヴェスプッチの四度の航海
アメリゴの航海の記録は『四度の航海』と『新世界』が刊行されているが、いずれもアメリゴがフィレンツェのメディチ家に報告した書簡の形をとっている。しかし、いずれもアメリゴ自身の原本は存在せず、またその内容に矛盾があるため、アメリゴの著作ではないという説が当初から出されており、アメリゴの航海そのものにも疑問があるとされていた。これらの書によるアメリゴの航海とはどのようなものだったのだろうか。第1回航海 1497年5月~98年10月、スペイン王フェルナンドの派遣した船団に天文地理学者として参加。カディスを出航し、カナリア諸島から西に進み、カリブ海に入り、現在のコスタリカに達し、ユカタン半島からメキシコ湾沿いに北上、フロリダ半島を迂回して現在のチェサピーク湾付近に達する。そこから大陸を離れ、途中イティ島(現在のバミューダ島か)で現地人と交戦、222名の現地人を奴隷として連れ帰った。
第2回航海 1499年5月~1500年9月、スペイン王の船団に航海士として同乗、カディスを出航し、ヴェルデ岬から西に向かい、ブラジル北部と思われる陸地に到達。東南東に向ったが潮流に阻まれ北西に進路を変え、アマゾン河口を監察し、トリニダード島からカリブ海岸を西に進みベネズエラのパリア湾に至り、この地が広大な大陸であることを知った。エスパニョール島に滞在した後、カディスに帰着。
第3回航海 1501年5月~1502年9月、ポルトガル王マヌエル王から招請を受けてその船団に同乗(船団指揮官ではない)。リスボンを出航して南下し、アフリカのギニア海岸カーボ=ヴェルデでインド遠征から帰る途中のカブラル(インドをめざす途中、1500年にブラジルに到達していた)と遭遇した。そこから西に向かい、難航の末、ブラジル東岸に到着。アメリゴは途中から船団指揮権を与えられ、トルデシリャス条約の境界線を越えてブラジル海岸線に添って南南西に進み、現在のアルゼンチン海岸をさらに南下、南緯50°付近まで行ったが暴風雨と極寒のため南下を断念し、引き返した。そのため、南米大陸の南端を迂回する航路(後のマゼラン海峡)を発見するには至らなかった。
第4回航海 1503年5月~1514年9月、ポルトガルが非公式に派遣した船団に加わる。シェラレオネから南南西に向かったが、船団が離散、アメリゴはその中の1隻を率いて単独でブラジルのバイアに到着。さらに南に進み、サン=ヴィセンテ付近に上陸して砦を建設し5ヶ月滞在したが、後続がないため放棄して帰国した。
『新世界』の刊行 アメリゴ=ヴェスプッチの航海は『四度の航海』として彼の書簡という形で刊行された。1503年頃刊行された『新世界』も同じく書簡という形で発表され、彼の到達した土地はコロンブスのいうようなアジアの一部ではなく、「新大陸」であることを主張した。
アメリゴの航海ははたして真実か
彼の4回の航海がすべて事実であるとすれば、アメリゴの新大陸上陸は、コロンブスの1502年よりも以前の1497年に行われたことになり、ブラジルへの到達もカブラルの1500年よりも早い1499年ということになって新大陸に彼の名が冠せられてしかるべきこととなる。そして、新大陸をアメリカと名づけたのは、1507年にドイツの地理学者ヴァルトゼーミューラーが刊行した世界地図で「アメリカ大陸」と呼んでから一般化した。しかし、アメリゴの航海は不思議なことにスペイン・ポルトガルの公式記録には記載されておらず、また根拠となる『四度の航海』と『新世界』もアメリゴ自身の自筆本がないことから、当初から疑わしいとされていた。極端な説は、アメリゴは新大陸に自分の名前を付けたいがため、航海の時期や内容をでっち上げ、その名誉をコロンブスから奪ったとさえわれた。
Episode コロンブスの栄誉への侮辱?
アメリゴ=ヴェスプッチの新大陸発見を虚偽であると決めつける見解は、早くも同時代の宣教師ラス=カサスの『インディアス史』に見られる。彼は、スペイン入植者のエスパニョーラ島などでのインディオに対する過酷な支配を告発した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を書いた人物である。(引用)(新大陸を発見した功績をアメリゴ=ヴェスプッチひとりする「四度の航海」の記録が印刷刊行された結果)このインディアスについてラテン語で、またはそれぞれの母語で文章を書いたり、あるいは海図や地図を描いたり作成したりする外国人たちは、あたかもこのインディアスがアメリコ(アメリゴ)によって最初に発見されたかのごとく、これをアメリカなどと呼んでいるのである。アメリコはラテン人(イタリア人)で、たいへん能弁家であったから、自分の参加したはじめての航海を粉飾し、あたかも彼がその航海を指揮した船隊長であったかのごとく、巧みに自分自身に当てはめる術を心得ていた。実際にはアメリコは、船隊長アロンソ・デ・オヘーダと一緒にインディアスへ渡った人たちのひとりで、普通の船員として乗り組んだのか、それとも商人として、その船隊に要した費用の一部を負担したのであった。ラス=カサス『インディアス史』第1巻 岩波文庫 p.157-8>ラス=カサスはコロンブスの第1回航海の船団の乗組員のひとりであったので、コロンブスがインディアス(という大陸)発見者であるという栄誉が、アメリゴ=ヴェスプッチの不正によって奪われ、侮辱を加えられたと感じたのである。
その後もアメリゴの航海には否定的な見解が続き、19世紀初頭のドイツの高名な地理学者フンボルトはラス=カサス神父の糾弾には根拠がないことを明らかにしたが、アメリゴの第一回航海は架空のものとする見解を発表した。そのため、新大陸を「アメリカ」と命名したのも“錯誤”に過ぎない、と評価されるようになっていった。
アメリゴ=ヴェスプッチへの歴史的評価
ところが、19世紀中頃になって、アメリゴ=ヴェスプッチ自筆の手紙(フィレンツェのメディチ家に充てた)が発見され、また研究が進んだ結果、『四度の航海』そのものは誰かが書いた偽書であるが、4回の航海の内、少なくとも第2回・第3回は事実であるとする見解が有力となっている。また新大陸にアメリカという名を付けたのはアメリゴ自身ではなく、地図作製者の意図であったことことなどが明らかになっている。スペインとポルトガルは新航路開拓を激しく競っていたため、その内容は互いに国家機密扱いとしていた。その両国に関わったアメリゴの記録はそのために資料的な制約が多くなったのであろう。またその他の残された資料も少なく、まだ不明な点が多いことも事実であり、決着が付いたとは言えない状況のようだ。どうやらアメリゴ=ヴェスプッチを「名誉欲から新大陸発見を偽造したほら吹き」というのは、それこそ名誉を傷つけるもので誤っているようだ。かといって彼はコロンブスやマゼランのような本格的な「航海者」というイメージではなく、イタリア内陸のフィレンツェ出身でルネサンスの天文学や地理学に関心を持つ学者といった風貌を持ち、スペインに渡って新航路をめざす船団に乗り組んだのも40歳を過ぎており、その情熱は名誉心よりも好奇心に源泉があったようだ。その好奇心から、新しい土地に上陸して現地を見、現住民と接することによって彼はこの地を「新世界」と断定した。
「アメリカ」という呼称
アメリゴ=ヴェスプッチ自身は自ら探検した土地を「新世界」と呼び、アメリカとは言っていない。一般に新大陸を「アメリカ大陸」と名づけたのは、1507年にドイツの地図制作者ヴァルトゼーミュラーが『世界地理入門』を出版し、提唱したといわれているが、厳密には次のような事情であった。『世界地理入門』を出版したのはライン川の近く、ロレーヌ地方のヴォージュにあるサン=ディエ修道院であった。ロレーヌ公ルネ2世が地理学に関心を寄せていたこともあって、この修道院には優れた地理学者が集まっていた。主任司祭のリュドのもとでプトレマイオスの『地理学』を増補改訂して『世界地理入門』を出版することになり、文章をマティアス=リングマンら、地図をマルティン=ヴァルトゼーミュラーが担当した。ラテン語で書かれたその書の中に「今や、世界の既知の部分は広範に探検されているが、もう一つの第四の部分がアメリク=ヴェスプティウスによって発見されたので、怜悧の人、その発見者アメリクスに因み、アメリカ、即ち、アメリクスの土地と呼ばない理由はないと思う。それは、また、ヨーロッパ及びアジアがすでに女性の名前を貰っているように」と記されている。この文を書いたのはリングマンと考えられ、ヴァルトゼーミュラーが作成した付録の地図の新大陸の南の部分に、「アメリカ」の名称を記入した。この書は当時としてはベストセラーとなり、「アメリカ」という呼称が定着し、既成事実となっていった。<色摩力夫『アメリゴ・ヴェスプッチ』1993 中公新書 p.139-> → アメリカ大陸 アメリカ合衆国Episode アメリゴの見たアメリカ大陸
⒚世紀に発見されたアメリゴ=ヴェスプッチのメディチ家への私信には、彼の見たアメリカ大陸(ブラジル)での体験を伝えている。例えば次のような一節がある。その一方で、アメリゴはカリブ人を「人食い」であり、相手を喰うために戦争をするとも言っている。但しその部分は伝聞であり、彼らが人を食っているところを目撃したわけではない。幾つかの個所では現住民と衝突して殺し合いになったことを書いており、その恐怖心が「人食い」の記述となったようだ。しかし『四度の航海』にも書かれたいたカリブ人=人食いの話は、様々な書物で想像上の挿絵と共に拡散し、広くヨーロッパ人の意識のなかに広がることとなった。<篠原愛人『アメリゴ=ヴェスプッチ』2012 清水書院 人と思想シリーズ p.176>(引用)いたるところで私たちは全身裸の人たちを見ましたが、男女とも恥部を隠そうとしません。体格は立派で、均整も取れています。肌の色は白く、黒髪を長く伸ばしていますが、髭を生やした者はほとんどいません。暮らしぶりや風習を知りたいと思いましたので、二七日間、彼らと寝食を共にしました。私が知り得たのは次のようなことです。
アメリゴとアメリカの出会い。その報告のとおり現地人を裸で描いている。1600年頃の絵。
篠原愛人『アメリゴ=ヴェスプッチ』口絵より。
彼らには法律も、宗教もまったくなく、自然のままに暮らし、魂の不滅など知るよしもありません。また、私有財産というものもなく、すべてを共有しています。王国や地方の境界もありません。王はおらず、誰にも仕えません。それぞれが自分自身の主だからです。裁判もありません。彼らには物欲というものがなく、裁判など必要ないからです。<篠原愛人『アメリゴ=ヴェスプッチ』2012 清水書院「人と思想」シリーズ p.225>
トマス=モア『ユートピア』への影響 アメリゴ=ヴェスプッチの著作として発表された『四度の航海』は当時広くヨーロッパで読まれた。トマス=モアが1516年に発表した『ユートピア』は、理想郷であるユートピアを実際に見たのは、アメリゴ=ヴェスプッチの航海に同行したラファエル=ヒュトロダエスという人物とされ、彼がモアに語った話として記述されている。モアが理想社会としてあげた要素は、アメリゴの伝えた新大陸の知見に触発されたものであった。<篠原愛人『同上』p.176>
教科書でのアメリゴ=ヴェスプッチ
現行の高校世界史教科書ではアメリゴ=ヴェスプッチは「新大陸の発見者であり、アメリカという地名はその名から付けられた」という評価はほぼ共通であるが、その扱いにはかなりの差が見られる。標準的な山川詳説世界史最新版では、「ヨーロッパ人による航海と探検」の地図で、第2回(1499~1500)と第3回(1502)の航海ルートを挙げ、いすれもブラジルに達しているが、本文では1500年にカブラルがブラジルに到達し、「その後イタリア出身のアメリゴ=ヴェスプッチの南アメリカ探検によって、コロンブス以来探検がすすんだ土地が、アジアとは別の大陸であることが明らかになり、この大陸は彼の名にちなんで「アメリカ」と名づけられた」としており、混乱が見られる。各社の教科書でも、アメリゴ=ヴェスプッチの航海は、どの回のものを記載するかでばらつきがあるが、ほぼ第2回と第3回の2回を取り上げている。