イギリス革命
17世紀に起こったピューリタン革命、名誉革命を一括してイギリス革命と言う。人権などの市民社会の原則を確立し、政治的には議会政治のもとでの立憲君主政という政体を樹立した。
17世紀のイギリスにおいて、政治的な面ではステュアート朝の絶対王政を倒し、立憲君主政を実現させた変革をさす。一般に、1642年からのピューリタン革命と、1688年の名誉革命とを総称して、イギリス革命といっている。
しかし、イギリスで国王が処刑され、一時的にではあれ共和政=コモンウェルスが成立し、その後のイギリス国王は立憲王政の枠の中で専制君主としては振る舞えず、議会政治が不動のルールとなったという政治的変革の意義は大きい。イギリス革命で絶対王政が倒され、議会政治という新しい国家のしくみができたことが、国王の経済統制(重商主義)に代わって自由な経済活動を活発にして、イギリスの産業革命そのものを生みだしたとも考えられる。なお、イギリス革命の捉え方に関しては、ピューリタン革命の項を参照。 → 市民社会
イギリス革命の概要
- 国王の議会無視 ステュアート朝のジェームズ1世は王権神授説を信奉し、議会を無視して特権的大商人と結んで財源を確保しようとした。また国教会の立場からピューリタン(カルヴァン派プロテスタント)を弾圧した。次のチャールズ1世に対して、議会は1628年に権利の請願を決議して提出したが国王はそれを無視した。こうして地主や都市の商人などに多いピューリタンは議会を支持し、国王との対立は次第に深刻となった。
- 国王と議会の対立 チャールズ1世は長老派(プレスビテリアン、カルヴァン派)を信奉するスコットランドに対し、国教会を強制しようとしたが、それに反発して1639年にスコットランドの反乱が起こった。国王はその戦費を調達するため1640年4月に議会を招集したが、議会が王政を批判したため、直ちに解散してしまった(短期議会)。しかし同1640年11月に再び議会が開催されることとなり、以後この長期議会が革命の舞台となる。
- ピューリタン革命 1642年、ついに議会派と王党派の内戦が勃発した。国王の圧政に反発して議会派を構成したのはジェントリの中のピューリタン(清教徒)信仰をもつ人びとであり、ヨーマンといわれた広範な自営農民がその戦力となった。王党派は大貴族や大商人、ジェントリの中の大地主に多かった。内戦の過程で独立派の指導者クロムウェルが議会派の主導権を握って、鉄騎隊などの兵力を結集し、1645年のネーズビーの戦いなどで国王軍を打ち破った。クロムウェルは権力を握ると裁判で国王チャールズ1世の処刑を決定し、1649年に実行して王政を倒して共和政を実現させた。これがピューリタン革命である。
- クロムウェルの独裁 共和政のもとでクロムウェルの独裁が行われ、土地均分を求める水平派の指導する農民の運動は弾圧され、アイルランド征服・スコットランド征服はイングランドの植民地的支配という禍根を残した。またこの時期、国内産業を保護するため、オランダの商業活動を抑えようとして航海法を制定、翌年から英蘭戦争に突入した。革命政府も絶対王政の重商主義政策は継承し、次のイギリスの海外発展を準備したと言える。
- 王政復古 クロムウェルは護国卿として全権を握り、カルヴァン派的な厳格な政治を行ったが、その独裁的な手法は国民の支持を無くし、クロムウェル死後その反動が現れて、ステュアート家のチャールズ2世が復位し、1660年に王政復古となった。チャールズ2世と次のジェームズ2世は、王権神授説に基づき、絶対王政とカトリックを復活させようとして再び議会と対立するようになり、議会は対抗して審査法と人身保護法を制定した。またチャールズ2世の時、次の国王としてカトリック信者のジェームズを認めるかどうかをめぐり、それを容認するトーリ党と、反対するホィッグ党という政党が形成された。
- 名誉革命 ジェームズ2世がカトリック復帰を画策したことに対し、議会はトーリ党・ホイッグ党が協力してその排除を図り、1688年、国王としてオランダからメアリ(ジェームズ2世の娘)とその夫オラニエ公ウィレムを迎えることに踏みきり、11月、ウィレムがオランダ軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世は亡命して、無血で国王の交替が実現した。1689年、議会は権利の宣言を可決し、さらに両国王がそれを承認して権利の章典として公布して、立憲君主政を実現させた。これが名誉革命である。
革命期の宗派対立
また、イギリス革命では、カトリック(旧教)・イギリス国教会・ピューリタン(清教徒)・プレスビテリアン(長老派)というキリスト教の宗教各派の対立も重要な軸であった。おおよそを色分けすると、長期議会の段階では国王(ジェームズ1世・チャールズ1世)は国教会、議会主力は長老派、革命を推進したクロムウェルらはピューリタンであった。王政復古期では国王(チャールズ2世・ジェームズ2世)はカトリック、それに対して名誉革命を推進した議会は国教会がであった。そしてイギリス革命後は、クロムウェル独裁の反動からピューリタンは後退し、審査法によってカトリックと非国教会(国教会以外のプロテスタント)は排除されたので、国教会が優勢になった。名誉革命で寛容法がだされて非国教会の信仰の自由は認められ、イギリス革命における宗教対立は一応の決着を見たが、非国教徒・カトリック教徒には国の役職につく道は閉ざされていた。不十分な市民革命
イギリス革命の背景には、マニュファクチュア生産の発展に伴うジェントリ(地主)の成長があった。革命で政治的主導権を握ったのはこのジェントリであり、旧来の貴族階級はほぼ完全に没落した。しかしジェントリは「市民階級」ということは出来ず、この段階では都市の市民層の成長はまだ十分ではなかった。また政治形態は結局王政が復活して立憲王政という妥協的な体制におちついたこと、封建的特権の廃止なども徹底していなかったことなどから「市民革命」としては不十分なものであると考えられている(市民革命の項を参照)。イギリスでのブルジョワ(産業資本家)はこの17世紀段階で、徐々に形成さえつつあったが、はっきりとした政治勢力となっていくのは、やはり産業革命の時期、18世紀であり、彼らが政治的な権利を獲得するのも1832年の選挙法改正が一つのくぎりである。しかし、イギリスで国王が処刑され、一時的にではあれ共和政=コモンウェルスが成立し、その後のイギリス国王は立憲王政の枠の中で専制君主としては振る舞えず、議会政治が不動のルールとなったという政治的変革の意義は大きい。イギリス革命で絶対王政が倒され、議会政治という新しい国家のしくみができたことが、国王の経済統制(重商主義)に代わって自由な経済活動を活発にして、イギリスの産業革命そのものを生みだしたとも考えられる。なお、イギリス革命の捉え方に関しては、ピューリタン革命の項を参照。 → 市民社会