印刷 | 通常画面に戻る |

ヴィクトリア朝

19世紀後半のヴィクトリア女王の時代、近代イギリスで最も繁栄し、多くの自治領、植民地を所有し、工業生産・金融の面で世界経済のヘゲモニーを握り、第二帝国の時代ともいわれた。国内政治では保守党と自由党の二大政党が交互に政権を担当する政党政治が機能し、文化面でも世界をリードしパックス=ブリタニカを実現した。

 イギリスヴィクトリア女王の統治は、1837年から1901年までであるが、特にヴィクトリア朝と言われるのは、19世紀後半の半世紀間。イギリスの「世界の工場」といわれる工業力が他国を圧し、1877年にはインドを併合してイギリスのインド植民地支配を確立し、その広大な植民地では第二帝国といわれた大英帝国が繁栄した時代。また強大なイギリスの工業力と海軍力を背景にパックス=ブリタニカといわれる相対的な国際社会の安定がもたらされた。また、この時期の外交の基本姿勢はどの国とも同盟関係を結ばないという光栄ある孤立といわれた。
 イギリスでは、16世紀後半のエリザベス1世の時代と、この19世紀後半のヴィクトリア朝という女性を国王として戴いた時代に繁栄したと意識されている。現在のエリザベス2世の時代は未来の歴史家にどう評価されるか、問われることになろう。
ロンドン万博と近代文明 イギリスのヴィクトリア朝の繁栄を象徴するのがロンドンで開催された、1851年のロンドン万国博覧会の開催であった。また同じ1851年にはトマス=クックが旅行社を創設し、ロイターがロンドンにロイター通信を創業し、パックス=ブリタニカを背景に、イギリスで始まった近代文明が世界に広がり始めた年でもあった。

政党政治と議会

 政治の面では、イギリス議会政治の発展がこの時期の二大政党制を実現させ、保守党ディズレーリと、自由党グラッドストンが交互に政権を担当した。政党政治を支える選挙制度も、1867年の第二回選挙法改正で都市労働者が選挙権を認められ、1884年には第三回選挙法改正を行い、農業と鉱山の労働者にも選挙権が与えられ、女性参政権を除いてはほぼ普通選挙に近い形態となった。

帝国主義へ

 特にディズレーリ保守党政権のもとで、スエズ運河株買収インド帝国の成立という帝国主義政策がとられ、またグラッドストン自由党政権では帝国主義政策は抑制的であったが、アイルランドエジプトスーダンでのナショナリズムの高揚による激しい反英闘争が起きると、結局それらを軍事力で押さえつけた。グラッドストン退陣後は、植民地相ジョゼフ=チェンバレンによる植民地拡大路線が全面に展開されるようになり、1899年の南アフリカ戦争に突入する。その南ア戦争が長期化し、イギリス財政の逼迫する中、1901年にヴィクトリア女王は死去する。女王の死はイギリスの全盛期の終わりと、大きな曲がり角に来たことを示すできごとであった。
 → イギリス(7) 

ヴィクトリア朝イギリス人の食生活の変化

 17世紀~19世紀にはイギリス人の食生活に大きな変化が起こった。『路地裏の大英帝国』での角山栄氏の一文より引用する。
(引用)イギリス料理の特色といわれる家庭料理の伝統ができ上がるのは、こうして主婦の料理への関心が高まったヴィクトリア中期のことではなかったかと思われる。
 またこの時代はイギリス近代における第二次食事革命の時代であった。第一次食事革命は、17世紀中ごろから18世紀はじめの商業革命によってアジア、アフリカ、新大陸から珍しい食べ物、飲物、果物が輸入されたことによって起こった。メキシコからはとうもろこし、トマト。ペルーからはじゃがいも、ピーナッツ。ブラジルについで西インド諸島からは砂糖。アジアからバナナ、米。18世紀初めからデザートに舶来の果物がつくようになった。たとえばいちじく(北アフリカ産)、レモン、オレンジ、ライム(西インド産)、すいか(エジプト、インド、中国産)、桃(インド、中国産)、いちご、パイナップルなど。またこの時代に新しく登場した飲料としては、アラビアのコーヒー、メキシコのココア、中国の茶があった。しかしこれらを口にすることのできたのは、上流階級だけであった。ただし、じゃがいもだけは、貧民のパンに代わる代替食糧となった。
 これに対して19世紀中ごろに起こった第二次食事革命は、鉄道、蒸気船など近代的輸送機関の発達、瓶詰め、縫詰め、冷凍法を中心とする食糧保存法の発達によってもたらされた。人造バターが発明されたのは1860年代であり、冷凍船で初めて大量の牛肉と羊肉がオーストラリアからイギリスへ運ばれたのが1880年であった。また19世紀前半、都市労働者の手に入った魚といえば、塩漬けのにしんしかなかったが、6、70年代になると、冷凍装備のトロール船によって捕獲された新鮮な魚が、安い値段で庶民の台所に届くようになった。こうして新鮮な魚(とくにたら)がイギリスに入ってくるようになって登場したのが、フィッシュ・アンド・チップスである。フィッシュ・アンド・チップスというのは、ころもをつけて油で揚げた魚に、拍子木形に切って揚げたプライド・ポテトを添え、酢(といっても、日本のような米酢ではなく、多くは麦芽酢=モールト・ヴィニガー)をかけて食べるもので、新聞紙でつくった袋に入れて売っていた。誰が発明したのか、いまでも論争のあるところだが、労働者の食べ物として定着したのが、1864~74年のころである。ともかく第二次食事革命は、産業革命の成果と七つの海の支配を背景に、労働者大衆の食卓まで包み込んだ大きな拡がりをもつものであった。」<角山栄・川北稔編『路地裏の大英帝国』1982 2.家庭と消費生活(角山栄執筆) p.52-53>

Episode “20世紀は不吉に始まった”

 夏目漱石が留学先のロンドンに着いたのは1900(明治33)年10月28日の夜だった。翌日、ロンドン市中を歩きまわった漱石が見たのは、南ア戦争から帰った義勇兵を歓迎する雑踏だった。翌1901年1月23日には日記に「昨夜6時半女皇死去す」と書き、英語で All the town is in mourning.The new century has opened rather inauspiciously... 「新しい世紀はいささか不吉に始まった」と書いた。女皇とはヴィクトリア女王のこと。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.249>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

角山栄・川北稔編
『路地裏の大英帝国』1982初版
平凡社ライブラリー版2001