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運河

16世紀フランスに続き、18世紀イギリスの産業革命期に多く作られた。内陸運河は1830年代以降、鉄道が普及したため交通機関としての利用は減少した。19世紀にはスエズ運河、パナマ運河が大洋間を結ぶ運河として建設され、世界経済に重要な存在となっている。

 中国の運河については、大運河の項で説明。

フランスの内陸運河

 人工的な内陸水路としての運河の掘削は、大陸のオランダやフランスでは早くから進んでいた。特にフランスでは国家的な運河開鑿事業として、1600年にローヌ川とセーヌ川を結ぶブルゴーニュ運河が開通している。ほかに17世紀中にロワール川とセーヌ川を結ぶブリアール運河(1639)、ロワール川とローヌ川を結ぶ中央運河(1665)、ガロンヌ川と地中海を結ぶ南運河(ミディ運河)などが作られている。

イギリスの運河狂時代

 イギリスの運河建設はフランスより遅れ、1761年に完成した、ブリッジウォーター公が、ランカシャーの所領にある石炭開発を目的に、マンチェスターとの間に開設したブリッジウォーター運河が最初だと言われている。その後、運河は大量に石炭を運ぶ交通機関として注目され、産業革命期に主要な工業都市を結ぶ運河網が次々と建設された。これは運河狂時代とも言われているが、1830年代に鉄道の建設が始まると運河は急速に使われなくなった。<朝日新聞社編『世界史を読む事典』1994 p.698>
 イギリスでは現在でも多くの運河が残され、内陸交通機関として利用されている。
(引用)ブリッジウォーター公フランシス・エジャートンは、ワースリの炭坑を起点とし数マイル離れた都市マンチェスターにまで通ずる運河を建設するという計画にとりかかったのは1759年のことであった。これは非常に困難な仕事であった。……しかし、古くから公に仕えていた無学な水車大工ジェイムズ・ブリンドリー(1716-72)の熟練がすべての障害を克服した。そして1761年の夏には、石炭が、以前道路でもたらされた時の半額の運賃でマンチェスターに届けられていた。<アシュトン/中川敬一郎訳『産業革命』 岩波文庫 p.95>

Episode 文字通りのブリッジウォーター運河

 ブリッジウォーター公爵のもとで運河建築にあたった土木技師ブラントリーが、人びとをアッと言わせたのは、運河が谷を渡る部分だった。彼は水道橋を造り、その上に船を通すことにした。、まさか殿様の名が「橋水(ブリッジウォーター)」だからではあるまい。おそらくは古代ローマの水道橋あたりからヒントを得たのだろうが、これによって海から直接マンチェスターに船が入れるようになったので、小麦や石炭の価格が一気に下がり、運河の持ち主ブリッジウォーター公爵も通行料金がころがりこんで、笑いが止まらない。これを見て全国の地主・貴族があちこちに運河の建設を始め、一時はイギリスじゅうに4800キロの網の目のような運河が建設された。<小池滋『英国鉄道物語』1979 晶文社 p.95 新版2006>

出題 東京大学 2003

 (交通手段の発達に関連して)18~19世紀は「運河の時代」と呼ばれるように、西ヨーロッパ各地で多くの運河が開削され、19世紀の鉄道時代の開幕まで産業の基礎をなしていた。ブリッジウォーター運河が、最初の近代的な運河である。それは、イギリス産業革命を代表するある都市へ石炭を運搬するために開削された。その都市の名を記せ。

 解答  

ヨーロッパの国際内陸運河

 ヨーロッパの二大河川、ライン川とドナウ川を結ぶ運河構想は、カール大帝も夢見ていたという。またゲーテやナポレオンも同じような夢をもっていたとされる。それを最初に実現したのは19世紀、バイエルン王ルートヴィヒ1世だった。しかしこの運河(ルートヴィヒ運河)は水門が100ヶ所もあり、船も120トンまでしか通れなかったので鉄道との競争に敗れて無用の長物と化した。
ライン・マイン・ドナウ運河 1992年にライン川とドナウ川を結ぶ現在の「ライン・マイン・ドナウ運河」(ヨーロッパ運河とも呼ばれる)が開通し、北海(大西洋)と黒海(地中海)を船で往来することが可能になった。北海からライン川をさかのぼり、マインツからマイン川に入り、フランクフルトをとおり、支流のレグニッツ川を遡って、バンベルクから新たに開削された運河を通ってニュルンベルクを経てゲールハイムでドナウ川に入る。この運河は第一次世界大戦後の間もない1921年に「ライン・マイン・ドナウ運河株式会社」が設立され、1926年にマイン川側から工事を開始、実に70年の歳月を要して開通した。河川部分を含めて677kmを、1500トンの船で航行すること可能となった。やはりトラック輸送との競争では不利であるため経済効果は期待されたほどではないが、旧東欧諸国をふくめた「ドナウ経済圏」の動脈として期待されている。<加藤雅彦『ドナウ河紀行』1991 岩波新書 p.17-18>

アメリカの運河

 1825年、アメリカ合衆国で、五大湖とハドソン川を結ぶエリー運河が開通した。エリー運河はニューヨーク州北部を東西に走る全長585kmに及び、ハドソン川のオルバニーとエリー湖のバッファローを結ぶ。ハドソン川の河口のニューヨークから、蒸気船で五大湖地方まで行くことができるようになり、ニューヨーク市の経済的地位を確立し、内陸と海岸部の交易を飛躍的に増大させた。アメリカでは1827年に鉄道建設が始まり、1840年代に急速に普及するが、このエリー運河は鉄道とともに、アメリカ産業の発展をもたらした動脈と言うことができる。

大洋を結ぶ運河

 19世紀の資本主義先進国の海外進出にともなう軍事的対立はますます強まり、特に海洋国家であったイギリスとフランスを先頭に、航行日数を短縮して植民地支配をより効率的に運営することと勢力圏を拡大することのための、大陸と大陸をつなぐ地峡地帯での運河建設が行われた。
スエズ運河 まず始まったのが地中海と紅海を結ぶスエズ運河の建設であり、フランス人のレセップスによって1869年に開通した。しかし、スエズ運河は筆頭株主のエジプト政府の財政が破綻し、1875年にイギリスが運河株を買収、オラービーの反乱を鎮圧して82年にはエジプト全域を支配下においた。イギリスはスエズ運河を押さえることによって、インド支配をより強固にした。しかし、第二次世界大戦後、アラブ民族主義が台頭し、エジプトのナセル大統領は1956年にスエズ運河国有化に踏み切り、イギリスなどとのスエズ戦争を戦って、それを実現させた。
パナマ運河  パナマ運河はスエズよりも条件が悪く、建設は困難を極め、パナマ事件と言われる汚職事件も発生し、レセップスはついにその権利を放棄し、アメリカが継承することとなった。アメリカ帝国主義の中米への進出が最も激しかったセオドア=ローズヴェルトの時、アメリカはコロンビアからパナマを分離独立させ、そのパナマとの間で有利な条件を締結し、1914年に開通させた。その後パナマ運河はアメリカの支配下にあり、その世界政策の推進に利用された。第二次世界大戦後、パナマにおいても返還要求が高まり、1977年にアメリカのカーター大統領はそれに応じ返還を約束(新パナマ運河条約)したが、共和党レーガン政権のもとで1989年のパナマ侵攻が行われた。国際的な批判が強まるなか、1999年12月31日にパナマ運河はパナマに返還された。
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