イスラーム改革運動
18世紀にイスラーム世界に起こったイスラーム教の改革を通じて、イスラーム教徒の連帯をはかり、西欧勢力の侵略に抵抗し、自立しようとする運動。現在のイスラーム原理主義につながる。
近代イスラーム世界の三つの潮流
オスマン帝国の力が動揺し、西洋資本主義国による植民地化の危機が迫った近代イスラーム世界で、危機に対応して起こってきたイスラーム改革運動(アラビア語でサラフィーヤ運動とも言う)には、基本的に三つの潮流がある。 → イスラーム教- その一つは、民族の違いを乗りこえてイスラーム教徒であることをよりどころにして新しい国家を目指す運動であり、狭い意味のナショナリズム(民族主義)とは違う、イスラーム主義とか、パン=イスラーム主義といわれる、宗教運動の面が強い運動である。
- それに対して、アラブ人の文化の復興を通じて民族的な自覚を取り戻し、アラブ人国家の自立を目指していくアラブ文化復興運動(アラブの覚醒)であり、アラブ主義ともいわれる潮流があった。
- 同じアラブ人でも、国家の枠組みを重視して、民族や宗教という理念よりも、西欧国際社会に範を採った議会制を実現しようという、国民主義の潮流もあった。
イスラーム改革運動の始まり
イスラーム改革運動と言われる運動には、時期と地域によってかなりの違いが見られるので、一つの体系的運動というわけにはいかないが、さまざまな潮流がそれぞれ影響し合ったり、対立したりを続け、現代まで続いている。その最も早い動きがワッハーブ派の運動である。この運動は、18世紀中ごろ、アラビア半島のイブン=アブドゥル=ワッハーブが始めた運動で、イラン人やトルコ人に広がった神秘主義(スーフィズム)と聖者崇拝を、イスラーム教の堕落と見なし、ムハンマド時代の本来のイスラーム教に戻ることを主張した運動である。彼らは偶像崇拝や聖者崇拝を徹底して否定し、メッカのムハンマドの墓さえ破壊するという行動を広げ、アラビアの土豪サウード家と結びついて1744年ごろワッハーブ王国(第一次)を建国した。しかし、19世紀に入ってオスマン帝国によって派遣されたエジプト総督ムハンマド=アリーの軍隊によって滅ぼされた。その後、何度かの興亡を経て、ワッハーブ王国の理念は現在のサウディ=アラビアに受けつがれている。
ワッハーブ派の思想は、イスラーム神秘主義教団にもそれに対抗する改革運動が始まる契機となり、いくつもの新しい神秘主義教団(ネオ=スーフィズム)が現れ、アラブ世界以外にも影響を与えている。
アフガーニーの活動
次いで登場したのが、19世紀後半にオスマン帝国、エジプト、イランなどのイスラーム圏で幅広い活動をしたアフガーニーとその弟子のムハンマド=アブドゥフである。特にアフガーニーは、1870年代から帝国主義段階に達したイギリスなどヨーロッパ諸国が、イスラーム圏を次々と植民地化、あるいは勢力圏に収めていることに強い危機感と敵愾心を抱き、ムスリムが民族や宗派の違いを越えて結束しなければならないと考えた。彼はオスマン帝国各地やエジプト、イランで反英闘争を呼びかけ、さらにヨーロッパ各地でも活動し、その思想的影響のもとで、エジプトのオラービーの反乱や、イランのタバコ=ボイコット運動が興った。その思想と行動は帝国主義諸国側からパン=イスラーム主義と言われ、警戒された。19世紀末にはオスマン帝国のスルタン、アブデュルハミト2世はアフガーニーを招いてパン=イスラーム主義を柱としてオスマン帝国の再興を図ったが、オスマン帝国でタンジマート以来続いているオスマン主義の理念や、一方で強まっていたトルコ民族主義などの主張とは対立し、アフガーニーも孤立して幽閉され、運動は進展しなかった。第一次世界大戦の時期になると、オスマン帝国内外の中東ではアラブ民族主義などの民族主義的な動きがさらに強くなり、パン=イスラーム主義の理念は形骸化する傾向があった。