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第二帝国(イギリス)

19世紀後半のビクトリア朝から第一次世界大戦までのイギリスを、18世紀中期のイギリス植民地帝国を第一帝国というのに対比させてこう言う。イギリス帝国主義の最盛期。

 イギリスの第一帝国(1763~1783年、第一次植民地帝国)に続く、繁栄の時期で、大英帝国、「世界の工場」、パックス=ブリタニカの時期と一致する。また第二次植民地帝国とも言われる。ほぼヴィクトリア女王(1837~1901年)とその後の第一次世界大戦期までを指している。第一帝国はアメリカの独立によってカナダを除く北米植民地などを失って崩壊し、イギリスはその後、ナポレオン戦争では苦境に立たされたが、ヨーロッパでは唯一戦場となることを免れ、戦後にフランスに代わって覇権国家となった。
 19世紀前半のウィーン体制時代に他のヨーロッパ諸国に先駆けて産業革命を達成し、重商主義政策を改めて資本主義体制に合致した自由主義政策に転換した。この間、中国での1840年のアヘン戦争に勝利して香港を獲得し、またインドでは1857年インド大反乱(シパーヒーの反乱)を鎮圧して直接支配に乗り出すなど、積極的な勢力拡大を遂げ、植民地帝国へと進化していった。特に植民地インド産のアヘンを清朝の中国に密輸して銀を獲得するという、イギリス本国―インド―中国を結ぶ三角貿易(19世紀)がこの時代のイギリスの繁栄を支えた。中国では太平天国の反乱が起きるとその鎮圧に協力する一方、貿易利権の拡大を目指してアロー戦争をしかけ、1860年には北京条約でキリスト教の布教や開港場の増加を認めさせた。一方、南下政策をとるロシアがイギリスのインド支配を脅かすようになったことに対し、1853年、フランスとともにオスマン帝国を助けてロシアと戦うクリミア戦争を行った。それに勝ったことでイギリスはインド以東進出への主導権を握ったと言える。

第二次植民地帝国

 第二帝国の時代は、資本主義が帝国主義段階に達した時期であり、イギリス帝国主義はその先陣を切って第二次植民地帝国を形成した。その象徴的な出来事が、1875年ディズレーリ首相がスエズ運河株買収に踏み切り新たな植民地政策に転換したことがあげられる。それは、国内の社会的矛盾、労働者の不満などを植民地獲得によって解消する姿勢をとるようになり、また単なる市場や原料供給地としてだけではなく、独占資本の有する資本を投下して利潤のをあげるという「資本投下先」としての植民地に転換していったことである。
 具体的にはイギリスは、アフリカでは1881年に起こったエジプトでのウラービーの反乱を鎮圧し、エジプトの保護国化に向かい、ケープ植民地の北方にあったブール人の地域へ侵出して1899年からのブール戦争を起こし、中東やアフガニスタン保護国化ビルマ戦争でインド植民地を拡大、さらに中国分割への参加をはかる、などである。このような植民地や勢力圏の拡大は、列強との対立を深めた。19世紀後半の当時ヨーロッパの列強は、秘密軍事同盟を締結して勢力均衡を図るというドイツ帝国のビスマルク外交が展開されていたが、イギリスは強大な海軍力を背景にして、どの国とも同盟関係を結ばず、あえて光栄ある孤立という外交姿勢を保っていた。一方では植民地の白人入植者の自治については自治領(ドミニオン)として実質的な独立を認め、1887年からはイギリス植民地会議、1907年からはイギリス帝国会議を開催して本国との結びつきを維持した。

第二帝国の終焉

 しかし、19世紀末にはドイツとイギリスが急速に工業化を遂げ、イギリスの優位は次第に揺らいでいった。1899~1902年の南アフリカ戦争では勝利したものの、ブール人の二つの小国を相手に苦戦し、凋落の兆しが出始めた。もはや20世紀になると、列強の対立の中で単独で国益を守ることが困難となり、アジアでのロシアの侵出を前にして、光栄ある孤立を放棄して1902年に日英同盟を締結した。その後は特にドイツとの帝国主義的対立を深めてゆき、ロシア・フランスとの英露協商を結んで勢力均衡を図ったが、その破綻が第一次世界大戦となって爆発することとなる。大戦後はイギリスは戦勝国となったものの世界経済での首位の座をアメリカに奪われ、第二帝国は終わりを告げる。→ 第一次世界大戦とイギリス
 また、アイルランドの独立運動やインドを始めとする植民地での反英闘争が強まり、イギリスはその対策に苦慮することとなる。しかし、工業生産力を低下させたものの、ロンドンの株式取引を中心としてイギリスの世界金融の中心としての地位は維持された。
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