カラハン宣言
ソヴィエト=ロシア政権が中国に対し、不平等条約の撤廃、旧ロシア権益の放棄などを宣言、国交樹立などをを求めた。1919年の第1次、1920年の第2次宣言がある。日本と欧米の列強の中国進出が図られている中で、中国側に歓迎され、広東の孫文は国共合作に動き、北京政府は1924年5月にソ連と国交を樹立した。
1919年7月と1920年10月の二度にわたりソヴィエト=ロシア政権の外務人民委員(外相)代理のカラハンの名で中国に対して示された宣言。要点は、ソヴィエト=ロシアのレーニンが、1917年に発表した、平和についての布告に基づき、帝政ロシアが中国から奪った利権を無償で返還し、秘密条約のいっさいの取り決めを破棄することを宣言した。
1919年7月の第一次宣言は、実際には翌20年3月に中国で知られることとなり、当時の中国の人民および中華民国北京政府(軍閥)と孫文の広東軍政府の二つの政府に呼びかけらた。
しかし、北京の軍閥政府はそれに応じることにしたが、北京政府を支援していたイギリスが反対したため、回答しなかった。それを見たソヴィエト=ロシアは同年10月、第2次の宣言を北京政府に向けて出した。国民の間にもソヴィエト=ロシアとの国交樹立を求める声が高まり、1924年5月31日に北京政府はソ連を承認し国交が樹立された。
1919年7月の第一次宣言は、実際には翌20年3月に中国で知られることとなり、当時の中国の人民および中華民国北京政府(軍閥)と孫文の広東軍政府の二つの政府に呼びかけらた。
不平等条約、秘密協定の廃棄
カラハン宣言では領事裁判権などの不平等条約の廃棄が宣言されるとともに、義和団事件の賠償金の放棄などが含まれていた。また秘密協定の破棄には1896年の露清密約が含まれるので、そこでロシアに認められた東清鉄道の権益も破棄され、その権益は無償で中国に返還すると述べられていた。しかし後にこの件はソ連が態度を変更し、経営権の完全な返還は行われなかった(後述)。中国での歓迎
パリ講和会議でウィルソンの民族自決原則が中国にはあてはめられなかったことに幻滅を感じていた中国国民は、同1919年のヴェルサイユ条約に反対する五・四運動を起こし、日本を初めとする帝国主義諸国の中国侵略に強く抗議を意思を示していた。カラハン宣言は1920年3月、ようやくその内容が中国に伝えられ、ヴェルサイユ条約に幻滅していた中国人に大きな歓迎で迎えられた。特に雑誌『新青年』で文学を通じて中国の近代化をめざした知識人の中にソヴィエト=ロシアに対する関心が高まり、マルクス主義やボリシェヴィズムなどロシア革命の思想に傾倒する人々が生まれた。その一人が陳独秀で、彼は1921年に中国共産党を結成し初代の委員長となる。北京政府の対応
1919年7月の第1次カラハン宣言が出され、20年3月に中国に伝わると、民衆が広く歓迎の意向だったため、当時中国に存在した二つの政権、北京の軍閥政府と孫文を中心とした広東軍政府のいずれもそれぞれ民衆に押されてに対応を迫られた。しかし、北京の軍閥政府はそれに応じることにしたが、北京政府を支援していたイギリスが反対したため、回答しなかった。それを見たソヴィエト=ロシアは同年10月、第2次の宣言を北京政府に向けて出した。国民の間にもソヴィエト=ロシアとの国交樹立を求める声が高まり、1924年5月31日に北京政府はソ連を承認し国交が樹立された。
孫文の対応
一方、1919年10月、中国国民党を組織した広東軍政府の孫文は、ロシア革命の成功に影響を受けてソヴィエト=ロシアとの接近をはかった。孫文はコミンテルン代表ヨッフェと折衝を重ね、中国共産党との合作を推進、ソヴィエト政権の援助を受け入れて、1924年1月に広州で中国国民党一全大会を開催し、第1次国共合作に最終的に踏み切った。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』岩波新書などによる>東支鉄道の経営問題
カラハンは、北京政府との国交樹立の段階で、東支鉄道(中東鉄道ともいう。東清鉄道の後身)の無償返還の項目を除外するという態度の変更を行った。カラハンは当初からその件は含まれていなかったと弁明し、結局、東支鉄道の行政権は放棄するものの、ソ連がロシア利権を継承して経営権に参画することが認められ、実質的な経営と列車運行はソ連が行うこととなった。