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五・三〇運動

1925年、国共合作期に起こった中国の反帝国主義闘争。5月15日、上海の日本人経営の紡績工場でストライキを行った労働者が射殺されたことが発端となり、5月30日に大規模な労働者・学生の抗議デモが起こった。租界を警備していたイギリス人警官隊が発砲し多数の死傷者が出ると、抗議運動が中国各地で起こった。6月、広州での大規模なストライキでもイギリスとフランスの租界警備隊が発砲して多数が死亡、香港の労働者が抗議のストライキに決起した。広東軍政府の国民党はストライキを支援して香港を経済封鎖し、香港は16ヶ月にわたってマヒし、イギリス植民地支配を脅かした。ストライキは収束したが、この運動は中国での帝国主義に対する戦いであり、ナショナリズムの高揚を示す動きであった。

 1925年5月30日、第1次国共合作の時期に上海租界での中国人労働者殺害事件から発した大規模な反帝国主義運動。当時、中華民国は北京を軍閥に握られ、軍閥はイギリスやフランス、日本などの帝国主義列強と結んでそれへの従属の度合いを強めていた。それに対する戦いを続けていた孫文は1919年に中国国民党を結成し、ロシア革命で登場したソヴィエト政権の影響を強く受けて、間もなく発足した中国共産党との提携を強め、国共合作によって軍閥と帝国主義と戦う姿勢を強めていた。彼は1925年3月に死去するが、その前年に国民党改組を実行して国共合作に踏み切っており、国民党に共産党員が加わるとともにコミンテルンから派遣されたロシア人が顧問となって活動を開始していた。また孫文の「扶助工農」の方針に従い、1925年5月には中華全国総工会(労働組合)が全国的な労働者組織として結成された。
 そのような情勢の中で、上海で五・三○事件が起こり、それが拡大して特に広州・香港での省港ストなどの広範な五・三〇運動となった。

拡大した反帝国主義の運動

 1925年5月15日、上海で日本人経営の在華紡の工場でストライキ中に日本人監督が中国人労働組合指導者の一人を射殺した。それに抗議した労働者・学生が抗議行動をおこなって多数が逮捕された。5月30日その裁判がおこなわれる日に青島でも日本資本の紡績工場で争議中の労働者が奉天派軍閥の保安隊によって射殺される事件が起き、上海でも抗議行動が一気に爆発し1万人の市民・労働者が集まった。上海南洋大学の学生を先頭にした「上海人の上海を」や「租界を回収せよ」と叫ぶデモ隊と上海租界のイギリス警官隊が衝突、警官隊の発砲によって13名の死者が出た。この事件を契機に上海総工会ではゼネストを指令、それに対してイギリス・日本・アメリカ・イタリアの各租界当局が陸戦隊を上陸させゼネストを弾圧した。

香港の省港スト

 抗議のストライキは北京や広州、香港にも広がった。広州では五・三〇運動を支援するストライキが起こり、6月23日に中心街の沙基路で10万もの民衆が結集しデモ行進が始まった。対岸のイギリス・フランス租界の沙面の守備にあたっていたイギリス・フランスの租界守備隊は恐慌状態に陥ってデモ隊に発砲し、52名の労働者が殺害された。この報せに、香港で働いていた13万人の労働者もストライキに起ち上がり、続々と広州に向かった。さらに全国商工会(労働者組織)と広東軍政府の国民党の支援する労働者糾察隊が組織され、約2000人で香港―広州間の交通を遮断し、香港を経済封鎖した。省港スト(省は広東省の省都広州、港は香港のこと)と言われたこのストライキは、1926年10月まで16ヶ月にわたって続けられ、世界でもまれなこの長期ストによって、「東洋の真珠」と謳われた香港は、「臭港」、「死港」と化した。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 p.12-13>
 この五・三〇運動の広がりのなかで起こった香港のゼネストと経済封鎖は、イギリスの植民地支配の拠点を麻痺させた。長い香港の植民市支配の歴史のなかで、イギリスにとって最大の危機だった。ということは中国にとっては香港を回収するチャンスだったとも言えるが、そうははならなかった。租界の回収ではなく領土の返還なので簡単にできたとは思われないが、この時何らかの変化が生じていれば、現在の香港問題も違った経緯となったかもしれない。

在華紡

 在華紡とは、日本資本が中国内に設立した紡績会社のこと。1925年の五・三○運動のきっかけとなったのは、上海の在華紡である「内外紡績」の工場でのストライキで中国人労働者の一人が日本人監督によって射殺された事件であった。これを機に上海と青島にあった30ほどの在華紡の工場にストライキが広がった。
注意 高校世界史の教科書では、五・三〇運動を「上海における日本人在華紡工場での労働者ストライキから起こった暴動」という説明で終わっているものが多い。しかし、日本人経営の工場で起こったストがきっかけであったことは確かだがそれは反日運動といったものにとどまるのではなかったことを知っておこう。むしろ、広州や香港に飛び火し、広州のイギリス・フランス租界での戦いや、16ヶ月にわたった省港ストで香港がマヒしたことが重要な意味をもっており、幅広い反帝国主義を掲げた中国のナショナリズムの高揚であったことを押さえておこう。

五・三〇運動の意義

反帝国主義の運動 中国では1898年の中国分割、第一次世界大戦中の日本の二十一カ条の要求など、帝国主義諸国による侵略が進んでいたが、北京の軍閥政権は抵抗することなくむしろ外国資本と結んで民衆を抑圧していた。それに対して孫文は1919年に中国国民党を結成し、20年代に入ると急速にソヴィエト=ロシアに接近し、国共合作が進んでいった。1924年に第1次国共合作が成立し、その翌年に五・三〇運動が起こったことは中国における反帝国主義の運動の最初の盛り上がりを意味していた。この運動は中国の労働者・市民・学生が立ち上がった反帝国主義運動であり、植民地支配を行っているイギリス、フランス、日本などに大きな衝撃を与えた。
ナショナリズムの高揚 また、五・三〇運動の直接の動きとして、7月に広東に国民政府が成立し、翌年には国民革命軍による北京軍閥政府に対する北伐が開始されたことは、五・四運動から始まった中国のナショナリズムが第1次国共合作と五・三○運動を経て、具体的な組織と運動を持つことになったことを示している。
 しかし、中国の反帝国主義とナショナリズムの運動は、その後、順調に進むことは出来なかった。北伐が進行する過程で、国民党の中に、労働者の革命的な動きとそれを指導する共産主義の進出を恐れる右派が形成され、第一次国共合作は次第に困難になり、分裂に至ることとなる。また、上海や香港の民族資本は、外国資本との結びついて利益を上げるために、植民地支配の排除や租界の廃止を喜ばず、それらを進めようというナショナリズムにも警戒を強めていった。そこで実行されたのが国民党右派の蔣介石による1927年の上海クーデタであった。

参考 アンドレ=マルロー『征服者』

 1930年代から戦後にかけて人気作家であり、またフランス政府の文化相となったことでも知られるアンドレ=マルローの小説『征服者』は、この省港スト下の広州、香港を舞台とし、広東国民政府に参加しているロシア人やフランス人の活動を描いている。五・三〇運動は中国での出来事であるが、1920年代の世界で、帝国主義とナショナリズム、資本主義と共産主義などの運動が重なり合った国際的な動きであったことを理解する上で参考になる。もっともマルローは歴史を語ろうというのではなく、社会参加する人間の行動とその中の孤独な心情を執拗に描いていく。しかし、マルロー自身が当時の中国で広東軍政府と関係をもっていたので、臨場感は十分伝わってくる。マルローには、この次に起こる、1927年の蔣介石による上海クーデタを描いた『人間の条件』もある。
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