不平等条約の撤廃(中国)
1842年の南京条約以来の不平等条約を撤廃することは辛亥革命後の中国にとっても最も重要な外交課題だった。蒋介石の国民政府による中国統一により、1930年に関税自主権は回復したが、残る治外法権の撤廃は日中戦争の経過の中で、欧米諸国は蔣介石政権に対して1942年10月に承認、日本は汪兆銘政権に対し1943年1月に承認した。これによって中国の不平等条約は解消した(つまりほぼ百年を要した)。日本の敗戦によって汪政権は倒れ、国民政府蒋政権は中国共産党によって台湾に追われたが、新生の中華人民共和国は不平等条約を引き継ぐ必要はなかった。
清朝がイギリスと結んだ1842年の南京条約での関税自主権の喪失、五港通商章程での領事裁判権(治外法権)の承認、虎門寨追加条約での最恵国待遇の承認などは、アメリカ・フランス以下の西欧諸国にも拡張された。日本との間では1871年に締結された日清修好条規は対等な条約であったが、日清戦争後の1896年に日清通商航海条約で日本の治外法権(租界の設置)・関税特権などが欧米と同じように認められ、不平等条約関係となっていた。
清朝を倒して成立した中華民国もこれらの不平等条約を継承したので、半植民地状態から脱却し近代国家として自立するためには条約改正は不可欠であったので、それは民族的な悲願となった。しかし、当初は孫文と袁世凱の対立など新国家の態勢は安定せず、条約改正の交渉を行うことはできなかった。
日本との条約改正交渉 日本にたいしても日清通商航海条約の破棄を要求し、交渉が始まったが、1928年5月3日に起こった済南事件の処理で遅れ、ようやく1930年5月に新関税協定を締結、中国の関税自主権を承認した。これは、それまでの山東出兵など対中国強硬外交を進めていた田中義一政友会内閣が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の処理を誤って総辞職し、1929年7月に浜口雄幸民政党内閣が成立、幣原喜重郎外相による対中国協調外交に転換したことが大きい。また世界恐慌の影響が日本・中国双方に現れ、経済安定が求められたことも背景であった。 → 済南事件「遅れた新関税協定」の項を参照
一方、日本は1943年1月9日、汪兆銘の南京政府との間で租界還付および治外法権撤廃に関する日華新協定を調印した。欧米の租界に対してては日本軍が武力で占領し、同年10月、それを傀儡政権汪兆銘政権へ返還した。<横山宏章『中華民国』中公新書1997 p.157-161 などのよる>
日中戦争と太平洋戦争での日本の敗北によって、汪兆銘政府は中国では「偽政府」とされたため、日本との協定も無効となったが、蔣介石政府の締結した諸条約によって租界の返還、治外法権の撤廃が生きていたため、中国の不平等条約問題は解決した。問題解決の恩恵は次の中華人民共和国に継承されることとなった。
しかし、南京条約でイギリスに割譲した香港島と隣接する租借地九竜半島、ポルトガルに割譲したマカオだけは外国主権下におかれ、その解放は中華人民共和国にとっての課題となった。また戦後の日本は中華人民共和国を承認しなかったため、国交はひらかれず、外交関係・経済関係も中断し、ようやく1978年に日中国交正常化が実現する。
清朝を倒して成立した中華民国もこれらの不平等条約を継承したので、半植民地状態から脱却し近代国家として自立するためには条約改正は不可欠であったので、それは民族的な悲願となった。しかし、当初は孫文と袁世凱の対立など新国家の態勢は安定せず、条約改正の交渉を行うことはできなかった。
関税自主権の回復
ようやく不平等条約の改正問題が具体的な交渉にかけられるのは、中華民国国民政府の蔣介石率いる国民革命軍が北伐を実行し、1928年6月9日に北京に入城、軍閥を一掃して中国統一を達成したことによって開始された。まずアメリカが1928年7月25日に、中国の関税自主権の回復を承認したことで前進した。アメリカは中国を経済市場として重視、統一された中国との関係を改善することが国益になると判断した。イギリスなど諸外国も12月までに改正条約に調印した。日本との条約改正交渉 日本にたいしても日清通商航海条約の破棄を要求し、交渉が始まったが、1928年5月3日に起こった済南事件の処理で遅れ、ようやく1930年5月に新関税協定を締結、中国の関税自主権を承認した。これは、それまでの山東出兵など対中国強硬外交を進めていた田中義一政友会内閣が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の処理を誤って総辞職し、1929年7月に浜口雄幸民政党内閣が成立、幣原喜重郎外相による対中国協調外交に転換したことが大きい。また世界恐慌の影響が日本・中国双方に現れ、経済安定が求められたことも背景であった。 → 済南事件「遅れた新関税協定」の項を参照
治外法権の撤廃の棚上げ
残る治外法権の撤廃・租界の返還についても交渉がはじまったが、中国民衆の中の治外法権に対する反発は強まり、1927年1月5日には武漢では漢口のイギリス租界を民衆が実力で解放するなど行動に出た。イギリスは反発して上海の租界の返還は拒否し、治外法権撤廃交渉は中断した。その後、1931年に日本の関東軍の独走により満州事変が勃発、日本は再び対中強硬外交に転換し、さらに1937年に日中戦争へと発展したため、治外法権・租界の撤廃は棚上げとなった。第二次世界大戦での回復
第二次世界大戦がアジアに及び、1941年12月に太平洋戦争が始まると、欧米列強は中国の協力を得るため蔣介石政権との関係改善を狙い、まずアメリカ・イギリスは1942年10月に治外法権・租界の撤廃を宣言した。それはその年の初めに中国が連合国共同宣言に加わったことへの見返りであった。このアメリカ・イギリスの宣言は国民政府にとって大いに歓迎された。(引用)(1942年)10月10日の建国記念日(辛亥革命勃発の記念日)の式典で、中国国民政府の指導者蔣介石は、小雨のなか集まった2万の参会者を前に、次のような演説を行っている。アメリカ、イギリスの共同租界の返還、治外法権の撤廃などを認め不平等条約はすべて廃棄は1943年1月11日に実現した。
「アメリカ・イギリスは、我が国一〇〇年来の不平等条約を撤廃すると正式に通告してきました。一〇〇年来の革命の先烈たちの奮闘、および総理(孫文)遺嘱の命は、ともに不平等条約を撤廃することにありましたが、それが今まさに実現したのであります。」(歓呼)
アヘン戦争終結にあたって締結された南京条約(1842年)から奇しくも100年にあたる節目の年に、孫文が「遺嘱」で命じた不平等条約の撤廃がついに実現したわけだから、かれの遺命実現を最大の使命としてきた蔣介石にしてみれば、この日は生涯で最も晴れがましい瞬間であったことだろう。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 はじめに>
一方、日本は1943年1月9日、汪兆銘の南京政府との間で租界還付および治外法権撤廃に関する日華新協定を調印した。欧米の租界に対してては日本軍が武力で占領し、同年10月、それを傀儡政権汪兆銘政権へ返還した。<横山宏章『中華民国』中公新書1997 p.157-161 などのよる>
日中戦争と太平洋戦争での日本の敗北によって、汪兆銘政府は中国では「偽政府」とされたため、日本との協定も無効となったが、蔣介石政府の締結した諸条約によって租界の返還、治外法権の撤廃が生きていたため、中国の不平等条約問題は解決した。問題解決の恩恵は次の中華人民共和国に継承されることとなった。
しかし、南京条約でイギリスに割譲した香港島と隣接する租借地九竜半島、ポルトガルに割譲したマカオだけは外国主権下におかれ、その解放は中華人民共和国にとっての課題となった。また戦後の日本は中華人民共和国を承認しなかったため、国交はひらかれず、外交関係・経済関係も中断し、ようやく1978年に日中国交正常化が実現する。