パキスタン決議
1940年、全インド=ムスリム連盟大会でジンナーが提唱したムスリム国家の独立宣言。インドがヒンドゥー教徒とムスリム(イスラーム教徒)の二国家に分離独立する道を開いた。
イギリスのインド植民地支配に対する、インドの民族運動は、ヒンドゥー教とイスラーム教の対立(コミュナリズム)を抱え、またカースト制度の制約などもあって、20世紀初めになっても順調には進まなかった。それでも第一次世界大戦を機に、国民会議派はガンディーに率いられ非暴力・不服従という戦術をとって大衆の支持を受け大きく前進した。ガンディーは、カリフの擁護という問題に直面していたイスラーム教徒にヒラーファト運動を呼びかけ、ここにヒンドゥーとイスラームという宗教対立を超えた協調が成立した。しかし、その時期を過ぎると、両者は再び、意見を対立させるようになり、混迷していった。
1930年代、イスラーム教徒の反英闘争で指導の中心に立つようになったジンナーは、ガンディーの国民会議派主導の運動とは別に、イスラーム国家の樹立をめざすようになった。
→ インドの分離独立 パキスタン
全インド=ムスリム連盟ラホール大会
パンジャーブ地方のラホールで開催された全インド=イスラム連盟のラホール大会で議長となったジンナーは開会あいさつで「ムスリムはいかなる意味でも国民 Nation である。だから自分の故郷、領土、国家を必要とする」と演説、1940年3月23日、続いて次のような決議が採択された。- 地理的に隣接している地域単位は必要なら領域的な調整をしたうえで、諸地方にまとめる。
- インド亜大陸の北西部や東部のようなムスリム人口多住地域は独立諸国家 independent states を創るよう集められる。
- その構成単位は自治権と主権を持つ。
→ インドの分離独立 パキスタン
パキスタンの起源
さかのぼって1930年のムスリム連盟大会で詩人ムハマッド=イクバールが、西北インドに「ムスリム・インド」を建設することに触れたことに始まる。さらにさかのぼれば1919年頃から漠然とムスリム国家の建設の希望が生まれていた。このイクバールの提案に啓発されたイギリス留学中の一人のムスリム青年が、英印円卓会議に訪英したムスリム代表団に、パンジャーブ・アフガン(西北辺境州)・カシミール・シンド・バルチスタンからなるムスリム国家をつくるようにと訴えた。そしてその国を、最初の4州の頭文字、P・A・K・Sとバルチスタンのスタン Stan(州、国の意味)をとって、パキスタンと呼ぼう、と提唱した。パキスタンにはまた「清浄の国」あるいは「聖なる国」の意味もあった。初めは詩人や学生の夢物語と思われていたムスリム国家だが、1930年代にムスリム連盟が国民会議派との対立を深めるなかで徐々に具体化し、ついに40年のラホール大会決議で国家建設が決議されるに至った。これがパキスタン建国の出発点とされ、後に40年のジンナー提案の決議は「パキスタン決議」と言われるようになった。<森本達雄『インド独立史』1973 中公新書 p.174-175> → パキスタン資料
1940年3月23日 全インド=ムスリム連盟のラホール大会決議(引用)・・・国民というものをどのように定義付けるにしても、われわれムスリムは国民であり、故地、領域、国家を持たねばならない。われわれは、自由で独立した人間として、隣人と平和裡にそして調和して暮らしたいのだ。われわれは、皆が、精神的・文化的・経済的・社会的・政治的な生活を、最良と思える方法で、そして自らの理想や特質に沿うかたちで完全に発展させることを、切に希望する。(中略)以下のような基本的な諸原理が踏まえられない限り、いかなる憲政上のしくみも機能しないだろうし、ムスリム連盟自身も、それを受け入れることはできない。地理的に連続したいくつかの地域が、既存の領域の再編成を通じて、本来あるべきいくつかのまとまりがあること。そして、ムスリムが人口上多数を占める諸地域、たとえば、北西部や東部が、それぞれ自治的かつ主権的な性格を有する独立の諸政治体としての枠組みを与えられること。(下略)<歴史学研究会編『世界史史料』10 岩波書店刊 p.302-303 大石高志訳>(解説)この決議文はジンナーが起草したもので、後のパキスタン分離独立の理論的根拠とされたため「パキスタン決議」ともいわれる。具体的には1935年のイギリスの新インド統治法で定められた「連邦制」を拒否したもの。文中のムスリム人口の多い地域とは、北西部がパンジャーブ地方など、東部がベンガル地方を指す。なおここで independent states と複数形になっていたことから、後に東部ベンガルがさらに分離してバングラデシュとなる口実ともなった。