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インド独立法

1947年7月、アトリー内閣で成立したインドの分離独立を認めた法律。これによってイギリスのインド統治は終わり、翌8月15日を以てインドとパキスタンは分離独立することとなった。

 1947年7月18日、イギリスのアトリー内閣の時、議会で成立した、インドの独立を認める法律。ただし、ガンディーらが主張したインドの一体となった独立ではなく、インドの分離独立が条件とされた。この法律に基づいて、同年8月15日、インドは分離独立し、ヒンドゥー教徒のインド連邦と、イスラーム教徒のパキスタンが成立した。

インド・パキスタンの分離独立

 1945年8月、日本の無条件降伏によって第二次世界大戦は終結したが、インドまだイギリス統治下にあり、国内はインド全土の統一をめざすインド国民会議派とパキスタンの分離独立を主張する全インド=ムスリム連盟の対立から混乱、衝突が続いていた。イギリスの労働党アトリー内閣内閣は1947年2月20日に、来年6月までにインドを撤退して政権をインド側に譲渡すると宣言し、「最後の総督」に調停を委ねた。マウントバッテンは国民会議派のネルーとムスリム連盟のジンナー両者と面談した結果、分離独立が止むなしと判断し、両者に申し渡した。ネルーもこの段階で内乱突入を恐れて分離独立に同意した。同時にマウントバッテンは独立を早めて同年8月15日とすると通告した。

インド独立法の成立

 この間、ロンドンのイギリス議会においても7月4日よりインド独立法案が審議され、「インドに別れを告げる名調子の演説を多数議員が試みた上で」、7月18日、同法が成立した。その法には次のような事項が定められた。
  • 1947年8月15日より、インドとパキスタンに完全な自治領としての地位を与える。
  • 主権はさしあたり両自治領の憲法制定会議に揺すり渡す。
  • 両自治領内閣の勧告に従ってイギリス国王は総督を任命する。
  • 総督は「自由裁量権」・「特別責務」などを一切持たず自治領内閣の弦に従って行動する。
  • 憲法制定会議は将来の憲法を作るに際して、いかなる制限もなく完全にじゆうである。
  • 同会議は両自治領の立法府として機能を果たし、イギリス側から何らの制約も受けない独立したものである。
  • 新憲法成立までは1935年憲法(新インド統治法)が、必要な修正を施した上で、両国の憲法としての役割を果たす。
  • イギリスのインド担当国務大臣・インド省は廃止される。
  • 藩王国に対するイギリス宗主権は引き継がれず、消失する。
<山本達郎編『インド史』旧版世界各国史10 1960 山川出版社 p.489>
 インド独立法に基づき、インドは1947年8月15日、デリーのレッド・フォート前で独立式典を催しインド連邦として独立、ネルーが記念演説をした。パキスタンは前日の1947年8月14日に独立式典を開催した。  注意すべきはインド独立法にもあるように、このとき両国は実態は独立であるが、形式的にはイギリス国王を国家元首とするイギリス連邦(コモンウェルス)に加盟したことで、それぞれ総督をトップに戴いたことである。インドはマウントバッテンがそのまま総督、パキスタンではジンナーが初代総督となった。いずれにせよ、1877年以来のインド帝国はインド・パキスタンの独立にともない消滅した。
 インドは1950年1月26日に「インド共和国憲法」を施行し大統領を国家元首としたので、インド総督も消滅した。ただし、国際関係上のイギリス連邦加入はそのまま継続している。パキスタンも1956年にパキスタン=イスラーム共和国となり、大統領制となったがイギリス連邦に残留している

ビルマとセイロン

 なお、ビルマ1886年1月からイギリス領インドに編入されインド帝国の一つの州であり、1935年に新インド統治法によってインドと分離されてビルマ総督が収めていた。激しい反英闘争を戦い、1948年1月に独立した。イギリス連邦に加わらない形でビルマ連邦となった。セイロンは1815年以来イギリス領であったが、1948年2月4日にイギリス連邦内の自治国として独立した(1972年にイギリスから完全独立し国号をスリランカに改称)。
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