ネルー(1) インド国民会議派を率い独立運動を指導
1930年代からインドの国民会議派左派を指導し、ガンディーの継承者として活躍。イギリスの弾圧によってたびたび投獄される。第二次世界大戦後のインドの分離独立によって成立したインド連邦の初代首相となる。内政では政教分離(世俗主義)の原則を掲げ融和をはかりながら社会主義的工業化政策をとり、外交では非同盟中立を原則として第三世界のリーダーとなった。しかし、パキスタン・中国との国境紛争が深刻化、国内での宗教融和策、外交での中立政策はいずれも困難となった。その死後は高い国民的人気を背景に、娘インディラが国民会議派政権を継承し、その後もネルー王朝とも言われる一族支配が続いたため、ヒンドゥー至上主義を掲げるインド人民党が台頭することとなった。
Jawaharlal Nehru (1889-1964)
ガンジス川中流のアラハーバードの富裕な弁護士の子。父のモーティラール=ネルーも国民会議派の運動家でガンディーの協力者。その子がジャワハルラル=ネルーで、ケンブリッジ大学に留学して弁護士資格を取得し、1912年に帰国した。弁護士として活動しながら、ガンディーのはじめたサティヤーグラハ運動に深く共鳴し、国民会議派に加わった。ネルーは生涯ガンディーへの尊敬の念を失わなかったが、ガンディーの徹底した非暴力主義に対しては、それが場合によってはイギリスを助けることになるのではないかと疑問を感じ、対立することもあった。またガンディーは西洋文明をまったく否定して、インド古来の伝統的思想に固執したが、ネルーはロンドンで社会主義の影響も受けたこともあって、次第に両者の意見は食い違っていった。
・ページ内の見だしリスト
- (2)インド首相として、第三世界をリード
- (3)新生インドの内政
国民会議派を指導
ネルーは国民会議派内では左派のリーダーとして、1929年12月29日のラホールでの国民会議派大会では議長を務め「完全独立」(プールナ=スワラージ)を運動方針として掲げることに力を尽くした。1930年からはガンディーを再び指導者として第2次非暴力・不服従運動を展開し、協力した。しかしこの間、イギリス当局によってたびたび逮捕され、獄中生活を送った。インド連邦初代首相
第二次世界大戦後、1947年8月15日のインドの分離独立によってインド連邦が成立するとその初代の首相となった。1950年にはインド共和国憲法が成立し、インド共和国(厳密には単にインド)の首相となった。Episode 獄中から娘に書き送った『世界歴史』
ネルーは、1930年11月から33年8月までの3年間、イギリスによって監獄に入れられていた。その間の「余暇と隔離」を生かして、彼は一人娘(後のインド首相インディラ=ガンディー)への手紙で世界の歴史を書き送った。現在それは『父が子に語る世界歴史』全6冊として読むことができる。<ネルー、大山聡訳『父が子に語る世界歴史』1~6 みすず書房>ネルー(2) インド首相として、第三世界をリード
1950年代後半から、平和五原則を提唱するなど第三世界のリーダーとして戦後の国際政治に大きな役割を担った。
平和五原則の提唱と非同盟中立外交
独立を達成したインド共和国において、1952年に行われた総選挙でインド国民会議派は大勝し、その後同党による一党支配が続いた。国民会議派の指導者ネルーは国内での基盤を安定させた上で非同盟主義を掲げ、戦後の国際社会に第三世界の指導者として登場し、中国の周恩来、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノらとともに重要な存在となった。平和五原則の提唱 1954年4月29日、チベット問題で協議した中国の首相周恩来との間で「平和五原則」で一致し、1955年4月6日にニューデリーでアジア諸国民会議を開催、共同声明として発表した。
A・A諸国の協議 並行して1954年4月28日には南インドの新しく独立した諸国を招集してコロンボ会議を開催、翌1955年4月18日のアジア=アフリカ会議(バンドン会議)ではリーダーシップを発揮した。
非同盟諸国との連携 また1961年9月1日にはユーゴスラヴィアのティトーおよびナセルらと第1回非同盟諸国首脳会議(ベオグラード)を開催した。米ソの東西冷戦に巻き込まれない中立外交により、第三世界の結束を図った。
Episode インド象インディラの来日
ネルーは、かつて日本ではネールといわれていた。戦後の世界のリーダーの一人として、日本でも高い人気があった。それは彼が平和五原則を提唱し、アジア・アフリカ会議で活躍したことで、第三世界のニューリーダー、平和主義者と受け止められたこと、1949年、日本の子どもたちの要望に応えて上野動物園に象のインディラを寄贈してくれたことなどが、広く知られていたからであろう。これは戦争で象がいなくなったことを悲しんだ台東区の子どもたちが、ネルーにお願いの絵はがきを送ったところ、そこに書かれた象の鼻が短かったり、耳が小さいことを見たネルーが、本当の象を見せてやりたいと思い、寄贈してくれたのだった。娘の名前と同じインディラと名付けられた子象は2ヶ月がかりで上野にやってきた。このことは戦後はじめての明るいニュースとして報道され、ネルー、いやネールの名は日本中に広がった。 → 象のインディラ物語りそのネルーが娘のインディラ=ガンディーと一緒に初めて日本を訪問したのは、1957年10月7日のことで、各地でさかんに歓迎された。このころは、日本でもアジア諸国との連帯が新しい日本の外交のめざすことだ、という願いが強かった。ネルーを迎えた日本の総理大臣は岸信介。彼は、戦後の日本の外交を、日米軍事同盟へと転換させることをめざしていた。それを1960年の日米安保条約改定で成し遂げ、退陣した。そしてまもなく、ネルー自身も平和外交、非同盟主義の原則を捨てることとなり、日本でのネールの人気も急速に落ちていった。1957年の来日は、歴史の一コマとして戦後の「よき時代」の残影のように見える。 → NHKアーカイヴス インドのネール首相来日
パキスタン、中国との対立
パキスタンとの対立 しかし、インド独立の際、イスラーム教徒が分離して建国されたパキスタンとの関係は、カシミール帰属問題をめぐって常に危ういものがあった。早くも47年10月、カシミール地方の帰属をめぐって第1次インド=パキスタン戦争が起こり、パキスタンはアメリカに近づいてSEATOとCENTOに加盟した。中国との対立 中国に対しては帝国主義に対抗する国として友好的で1949年末に共産党政権を承認したが、59年にチベットで中国共産党政府に対する反乱(チベット反乱)が起こるとネルーはチベット支持を表明し、平和五原則の一つ「内政干渉をしない」ことに反することを行った。
非同盟外交政策の放棄とその死 インドと中国は友好関係から対立関係に転じ、62年10月には中印国境紛争(中印戦争)が起こった。この衝突でインド軍の敗色が濃厚になると、ネルーはアメリカに援助を求め、非同盟主義を放棄せざるを得なかった。すでに病を得ていたネルーは失意のうちに64年5月に死去した。
ネルー(3) 新生インドの内政
独立後のインドの国家統合を図るため、内政の理念として政教分離主義をかかげ、経済政策では社会主義的な計画経済の導入を図った。
1951/52年に行われたインドの第1回総選挙で、ネルーに率いられた国民会議派は、下院では489議席のうち364議席、つまり74%を獲得、圧倒的な勝利を収めた。会議派はほとんどの州議会でも安定過半数以上の議席を獲得し、政策は会議派内の派閥の論争を経て決定され、共産党などの野党が政策に関わる事はできなかった。このような国民会議派一党優位態勢は60年代中頃まで続いた。その中でネルーはカリスマ的な指導力を発揮し、新生インドをリードした。
ネルーの活躍は、世界史的には活発な非同盟主義、アジア・アフリカ会議などで際立っているが、より重要なのは国内政治でどのような姿勢を示したのだろうか。彼に与えられた内政面の課題は、インドを「近代国家」としていかに国民を統合し、国民生活を安定させるか、ということであった。その輿望に応えてネルーが掲げた主要なイデオロギー(立場とした理念)は、内政においては政教分離主義と社会主義、外政においては非同盟主義とに要約することができる。
社会主義 すでにネルーは、1929年に「貧困を解決するためには社会主義以外はない」と主張しており、ソ連の第1次五カ年計画に見られる計画経済によってインド経済の建設を構想した。独立後も高い人口増加率が続くインドで、20年間で国民所得を実質2倍にすることを目標として掲げ、1951年から第1次五ヶ年計画に着手した。農業生産を重視した第一次に続き、56年からの第二次では鉄鋼などの重工業への公共投資を行い、工業化の推進を図った。この経済政策は発展途上国の計画経済として注目されたが、多くの困難に見舞われた。重工業優先となったためそれまでインドの輸出を支えていた綿工業が衰え、輸出が減少したため外貨不足に陥り、農業生産が減少したため食糧不足となった。その結果、インドの経済成長は計画通りに進まず、60年代以降の日本や東南アジア諸国の成長に後れをとってしまった。
インディラ=ガンディーが暗殺されるとその息子のラジブ=ガンディーが後継者となった。こうして子から孫へと三代にわたってネルーの血筋が権力を握ることとなったので、「ネルー王朝」などと揶揄される。
ネルーの活躍は、世界史的には活発な非同盟主義、アジア・アフリカ会議などで際立っているが、より重要なのは国内政治でどのような姿勢を示したのだろうか。彼に与えられた内政面の課題は、インドを「近代国家」としていかに国民を統合し、国民生活を安定させるか、ということであった。その輿望に応えてネルーが掲げた主要なイデオロギー(立場とした理念)は、内政においては政教分離主義と社会主義、外政においては非同盟主義とに要約することができる。
ネルーの内政
政教分離主義 ヨーロッパ型「近代国家」に近づくためにインドにとって最も大きな課題が宗教国家からの脱却でった。政教分離主義(セキュラリズム、世俗主義ともいう)は前近代の政教一致(テオクラシー)を否定し、フランス革命以降、近代市民社会の理念として定着した、個人の信仰は自由であり国家は介入してはならないという理念であり、フランスではライシテといわれ、アジアではオスマン帝国を倒したトルコ共和国でも世俗主義改革が行われていた。インドではすでに国民会議派は1931年のカラチ大会で、はじめて国家は宗教的に中立であるべきだと決議しており、インド憲法では1976年の改正で、前文に「政教分離主義」ということばが挿入された。新生インドで政教分離主義が強調されたのは、分離独立したパキスタンがイスラーム教徒の国家であることを明確にしているのに対し、インドはヒンドゥー教徒だけでなく、ムスリム、仏教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒、シク教徒など多くの宗教信者を抱え、それらを「国民」として統合しなければならなかったからである。政教分離主義を掲げることで、イスラーム教徒が多数であるカシミールを領有することができ、シク教徒の分離要求を認めない理由ともなる、ネルーはインドの国家統合のイデオロギーとして政教分離主義を常に強調した。社会主義 すでにネルーは、1929年に「貧困を解決するためには社会主義以外はない」と主張しており、ソ連の第1次五カ年計画に見られる計画経済によってインド経済の建設を構想した。独立後も高い人口増加率が続くインドで、20年間で国民所得を実質2倍にすることを目標として掲げ、1951年から第1次五ヶ年計画に着手した。農業生産を重視した第一次に続き、56年からの第二次では鉄鋼などの重工業への公共投資を行い、工業化の推進を図った。この経済政策は発展途上国の計画経済として注目されたが、多くの困難に見舞われた。重工業優先となったためそれまでインドの輸出を支えていた綿工業が衰え、輸出が減少したため外貨不足に陥り、農業生産が減少したため食糧不足となった。その結果、インドの経済成長は計画通りに進まず、60年代以降の日本や東南アジア諸国の成長に後れをとってしまった。
その後継者たち
ネルーの後継者シャーストリ首相も1966年に急死したため、急遽インドの首相となったのが、ネルーの娘のインディラ=ガンディーであった。インディラ=ガンディー首相の時代はインド=パキスタン戦争が続き、国民会議派政権の強権的な政治運営が顕著になり、その支持も低下して、69年には国民会議派自体が分裂する。インディラはその後、社会主義寄りの政策を推進するが、反対派を厳しく弾圧して75~77年に非常事態宣言を行い、国民の言論や集会の自由を奪う強権政治を行った。77年に選挙に敗れ、一時政権から離れるが、80年に復帰した。しかし、自治要求を強めたパンジャーブ州のシク教徒を武力で弾圧したため、シク教徒の憎悪の対象となり、84年に暗殺された。インディラ=ガンディーが暗殺されるとその息子のラジブ=ガンディーが後継者となった。こうして子から孫へと三代にわたってネルーの血筋が権力を握ることとなったので、「ネルー王朝」などと揶揄される。