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中東和平会議(マドリード会議)

湾岸戦争後の1991年10月、アメリカの主導で招集されマドリードで開催された中東和平のための国際会議。アメリカとソ連、イスラエルとパレスチナが初めて同席した会議となったが、パレスチナ代表としてPLOの参加は拒否されたので、会議の実効性が乏しく、具体的成果はなく終わった。それとは別にイスラエルとPLOはスェーデン外相の仲介で協議を重ね、オスロ合意を経て、1993年にパレスチナ暫定自治合意に到達した。しかし、和平に反対する勢力が双方で台頭したため、和平は実現していない。

アメリカの発言力強まる

 1990年のイラクのクウェート侵攻、91年の湾岸戦争の際には、イラクのサダム=フセイン大統領はパレスチナ問題とのリンケージをアピール、ミサイルを撃ち込んでイスラエルを挑発した。イスラエルが反撃すれば第5次中東戦争に発展する危険が大きかったが、アメリカがイスラエルに自重を要請し、またアラブ諸国の足並みもほぼ反フセインで同調したため、戦争は湾岸だけで限定されることとなった。PLOのアラファト議長のみはイラクを支持したため、イラク敗戦後の発言力が弱まった。この結果、発言力が強まったアメリカが主導する中東和平交渉が進むこととなった。

中東和平会議の開催

 アメリカはイラク問題でアラブ諸国の理解を得るためにも、対イスラエル和平交渉を積極的に進める必要が生じていた。湾岸戦争後は中東問題へのアメリカの関与が強まったのはそのような事情があり、まずブッシュ(父)大統領はソ連のゴルバチョフに働きかけ、ベーカー国務長官が積極的に関係国とシャトル外交を行い、1991年10月末に中東和平会議の開催にこぎ着けた。
 中東和平会議は1991年10月30日から3日間、パレスチナ問題(中東問題)の解決をめざし、スペインのマドリードで開催された。米ソ冷戦の終結と湾岸戦争の終了を受けてアメリカのブッシュ大統領が呼びかけ、ゴルバチョフ・ソ連大統領との共同主催という形で、中東の関係諸国が招集された。パレスチナ代表を誰にするかが懸案であったが、ヨルダンとの合同代表団という形で加えられた。アメリカとソ連の首脳が参加し、まがりなりにもイスラエルとパレスチナが同席する国際会議となったので、世界中がその成果に大きな期待を寄せた。なお、ソ連は会議終了後の12月にソ連邦解体となったため、ソ連として参加した国際会議はこのマドリード中東和平会議が最後となった。

中東和平会議の失敗

 しかし、アメリカとイスラエルは、パレスチナの唯一の代表としてパレスティナ解放機構(PLO)(アラファト議長)の参加を認めなかった。アメリカとイスラエルはPLOはテロ組織でありパレスチナ人の代表ではないと主張したため、PLOは排除された。会議は全体会議と、イスラエルと周辺諸国の2国間交渉ですすめられたが具体的な成果はなく終わった。パレスチナ難民の中でもっとも大きな力を持つPLOを排除した形では具体的な和平を実現することが困難であることがはっきりしてきた。
除外されたPLO マドリード中東和平会議ではアメリカとイスラエルが反対したため、PLOは参加できなかった。東イェルサレムとヨルダン川西岸、ガザ地区のパレスチナ人は、ヨルダン・パレスチナ合同代表団として参加し、パレスチナ代表団の団長となったのはガザ生まれの医師ハイダル・アブドゥッ・シャーフィであった。PLO議長のアラファトは1982年にレバノンからチュニスに拠点を移していたので、シャーフィー代表は交渉に当たってはチュニスのアラファトと連絡を取り合っていた。シャーフィー代表は妥協による平和を求める穏健な姿勢をとり、一方の頑なな妥協拒否を続けるイスラエルのシャミール首相とは対照的に、国際的な共感を呼んだ。PLOは直接会議には参加できなかったが、和平交渉ではアラファトの存在の重みが増すこととなった。<臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』2013 講談社現代新書 p.311-312>

オスロ合意から暫定自治の実現へ

 中東和平会議が進行している間、秘密裏にノルウェーのホルスト外相の仲介でオスロでイスラエル側(労働党ラビン首相)とパレスチナ側(アラファトPLO議長)の当事者交渉が粘り強く続けられ、ようやく互いに相手を承認することで合意、1993年9月13日にアメリカのクリントン大統領が仲介する形でパレスチナ暫定自治合意(この枠組みをオスロ合意という)が成立、パレスチナ自治政府が発足した。
 この合意によって、イスラエルとPLOは互いにその存在を承認し、「二国共存」で中東の和平を実現し、パレスチナ問題の解決に向かうと考えられた。焦点は、現実にヨルダン川西岸とガザ地区からイスラエル軍及びイスラエル入植者が撤退するかどうかにかかっていった。

中東和平、遠のく

 ところが、パレスチナ人の中にはこのころから過激派といわれるイスラーム原理主義グループが成長し、彼らはPLOのイスラエルとの妥協に反発し、同時に自治政府がアラファトの独裁色が強くなったこともあって、その統制に従わなくなっていった。特にパレスチナのハマスは急速に民衆の支持を拡大して行き、レバノンではヒズボラ(シーア派民兵組織)というイスラエルとの武装闘争継続を主張する勢力が台頭した。
 また、湾岸戦争での西欧諸国による武力侵攻に反発した中東各地のイスラーム原理主義集団も過激なテロ活動を展開するようになり、アフガニスタンを拠点としたターリバーンアル=カーイダなどが顕著な動きを示すようになった。  一方イスラエルにあっては、和平を推進したラビン首相が1995年に暗殺され、パレスチナとの和平に反対する保守強硬派が台頭した。こうして和平合意ができたにもかかわらず、アラブ過激派の自爆テロとそれに対するイスラエル軍の軍事報復という悪循環がめまぐるしくおこることになり、現時でも深刻な様相を呈している。