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ウル/ウルの軍旗

シュメール人の都市国家遺跡の一つ。前3000年頃から都市を形成。ジッグラト(聖塔)遺跡や「ウルの軍旗」などメソポタミア文明の繁栄を伝えている。

ウルの旗章
現在、大英博物館に保存されている「ウルの旗章」の一部。
 メソポタミア文明を生み出したシュメール人の建設した代表的な都市国家遺跡である。ユーフラテス下流のバビロニア南部にあり、1922~34年にイギリス人のウーリーによって発掘され、神殿とさせる施設(いわゆるジッグラト)と、楔形文字をしるした多数の文字盤、住居跡などとともに王墓が発見された。研究の結果、前2500年頃のウル第一王朝の王墓であることが判明した。王の遺骨の周りには高価な家具や装身具とともに、多数の殉死者や兵士、牛の遺骨が発掘された。 → ウルク
 その中でひときわ目を引くのが、「ウルの軍旗」(または「ウルのスタンダード」)といわれる遺物である。ここにはウルの兵士たちの戦いの場面と平和の場面が描かれていると言う。シュメール人は「民族系統不明」とされているのだが、この資料によってその風貌を知ることができる。そこに出てくるシュメール人兵士は、みな一様に横を向き、しかも異様に大きな目と鼻を持っている。なお、「ウルの軍旗」は現在は大英博物館に所蔵されている。

ウルのその後

 ウル第一王朝は前2500年頃、他の都市に対する覇権を握ったが、前2300年頃にバビロニア北部のセム系アッカド人に征服され、さらにアッカドの衰退に乗じてバビロニアの東北から侵入したグティ人に支配された。しかし、前2100年頃、シュメール人は勢いを盛り返し、ウルを都にバビロニア全域を支配するウル第3王朝を建てた。この時期にシュメール法典が編纂された。しかし、ウルの繁栄は100年ほどで終わり、イラン方面から侵入したエラム人によって滅ぼされた。その後、バビロニアには前1900年頃にアムル人バビロンを都としてバビロン第一王朝が成立し、ウルやウルクなどシュメール人の都市は衰え、砂漠の中に埋もれることとなった。

ウルの軍旗(旗章)

 シュメール人の王墓ウルの遺跡からはウルの軍旗(旗章、または「ウルのスタンダード」とも言われる)という当時の戦争の有様を描いた板が見つかった。瀝青の板に貝やラビスラズリ、紅玉髄が象嵌され、美しいものである。高さ22センチ、長さ50センチの木製の箱の側面に二つの主な場面が描かれており、ひとつは「戦争」の場面、一つは「平和」(または饗宴)の場面と言われている。発掘当初は軍隊の「スタンダード」(旗章)と想定されたが、それは誤りで、楽器の共鳴箱であった可能性が高い。「戦争」の場面では戦車が描かれているが、それを牽いている4頭の動物が議論のまととなっている。馬はまだメソポタミアでは導入されていないからである。一説では捕獲され、訓練されたアジアノロバの一種ではないかという。なお、右上の図は、「戦争」の場面。下のセンターテストに用いられたのは「平和(饗宴)」の場面である。<『世界の歴史〈1〉人類の起原と古代オリエント (中公文庫)』>

Episode パソコンを使うシュメール人?

 「ウルのスタンダード」については、その「戦闘の場面」と「饗宴の場面」についての詳細な紹介と解説が、小林登志子著『シュメル―人類最古の文明 』中公新書 p.115~129 に掲載されている。なお同書でオックスフォード大学の東洋学科によるシュメル文書全文の英訳事業が紹介されているが、同大学のホームページで、なんとシュメール人パソコンを使っているジョークも紹介されている。参照オックスフォード大学東洋学科

出題 2002年度のセンターテスト世界史B追試

  次の図は、大英博物館に収蔵されている「ウルのスタンダード(軍旗)」と呼ばれる遺物である。ウルについて述べた文として正しいものを、下の①~④のうちから1つ選べ。
ウルの旗章
 ① シュメール人のサルゴン1世が建国した。
 ② アッカド人の建てた都市国家だった。
 ③ アッカド人を征服して、初めてメソポタミアを統一した。
 ④ シュメール人が考案した楔形文字を使用した。

解答

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ノートの参照
第1章1節 イ.シュメール人の都市国家
書籍案内

大貫良夫/前川和也/渡辺和子/尾形禎亮『人類の起源と古代オリエント 』世界の歴史1 中公文庫

小林登志子
『シュメル―人類最古の文明 』中公新書