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ペイシストラトス

前6世紀のアテネに現れた典型的な僭主。不法な手段で権力を握り、前546~前528年の間独裁政治を行った。人気取り政策ではあるが農民救済や文化保護など見るべき政治もあった。僭主を継承した子のヒッピアスは市民から追放された。

アテネの僭主となる

 前6世紀のアテネで、典型的な僭主政を行ったとされている人物。前560年ごろ、自分の体を傷つけてアゴラに現れ、民衆の味方であるために政敵に襲われたと訴え、民会で自分を守るために50人の「棍棒持ち」を親衛隊とすることを認められ、それを使ってアクロポリスを占領して強引に僭主となった。その後2度にわたりアテネを追われたが、そのつど謀略を用いて前546年に3度目の返り咲きをはたし、その後は前528年までは安定した政権を維持した。

僭主政治

 彼は僭主として独裁政治を行ったが、その間は従来の国制を変更することはなく合法的に行われ、貧農救済や土木工事などを行ったり、宗教や文学を保護したり、パンアテナイ祭などポリスが主催する祭儀を挙行するなど、死去(前527年)までその地位にあって安定した政権を維持した。その政治は多分に民衆の支持をねらったものであったが、次の前5世紀の民主政の担い手であった中小農民がこれによって育成されたた点を評価することもできる。 → アテネ民主政

独裁権力獲得とソロンの抵抗

 アリストテレスの『アテナイ人の国制』にはペイシストラトスの権力掌握とそれに対するソロンの抵抗について簡潔に記載されている。
(引用)最も民主的との聞こえがあり、メガラ人との戦いに多いに名声を挙げたペイシストラトスは自ら身体を傷つけ、反対派によりこんな目にあったと称して民衆を説き伏せ、アリスティオンの動議により自分に身体の護衛を与えさせた。そこで「棍棒持ち」と呼ばれた輩を得、これをもって民衆に抗して立ち、(ソロンの)法律制定の後、32年目コメアスのアルコンの年(前561/0年)にアクロポリスを占領した。ソロンはペイシストラトスが護衛を求めたとき、これに反対し、次分は或る者より賢明であり、或る者よりは勇敢であると言ったと伝えられる。すなわちペイシストラトスが僭主政を企てていることに気づかぬ者よりは賢明で、これに気づきながら黙っている者よりや勇敢であるとの意味であった。しかしこう言っても人々を説き伏せ得なかったとき、武具を戸口の前に取り出して、自分はできる限り祖国のために働いてきた(当時彼は大した高齢であったから)、しかし他の人々も自分と同じように行うことを望むと述べた。さてソロンは当時このように勧説したが無駄であった。<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.33-34>
 ペイシストラトスは僭主となるとむしろ合法的に国事を司った。しかしその支配がしっかり根を下ろす前に、政敵によって一時アテネを追われた。その後謀略をもって復帰したが、再び党派間の争いから亡命に追いやられた。だが、亡命先で資金を蓄え兵士を雇い、パルレニス付近の戦いに勝ってアテナイ市を占領したペイシストラトスは、民衆の武器を取り上げてついに僭主政を実現した。

Episode ペイシストラトスの刀狩り

 僭主に復帰したペイシストラトスがどのように民衆の武器を取り上げたか、アリストテレスの『アテナイ人の国制』によると、次のように説明されている。
 テセウスの神殿に民衆を武装したまま集め、査閲をした後に演説を始めた。集まった民衆がよく聞こえぬというので、武器をその場において、もっとよく聞こえるためにアクロポリスの入口まで登ってこいと命じた。槍や盾をその場において、民衆がアクロポリス入口に移動して演説を聴いている間に、かねて旨を含められた人々が武器を取り上げ、テセウス神殿の建物に納めて鍵をかけてしまった。その合図を受けたペイシストラトスは演説を終え、武器を取り上げたことを告げて、驚いたり落胆したりせず、帰って各自の仕事にいそしむがよい、公共の事は今後みな自分が配慮しようと述べた。<アリストテレス『同上書』 p.35-36 および村川氏註 p.164>
 豊臣秀吉は方広寺の大仏造営を口実に刀狩りを行い、農民に農作業への専従を強制したとわれるが、同じようなことが古代ギリシアでもあったわけです。

ペイシストラトスの僭主政

 ペイシストラトスの権力奪取は不法な手段によって行われたが、権力をにぎってからの僭主政治は合法的に行われた。アリストテレスによれば「一般に彼は博愛で温和であり、過ちを犯した者には寛容であったばかりでなく、生計に苦しむ者には仕事のために金を前貸しして農業によって暮らして行けるようにした」と言っている。もっともその農業振興策は、一つには農民を市域に滞在させず田園に分散して生活させるためであり、一つには適度な楽な生活を送ることによって公共の事を考慮する欲望と暇をもたぬようにすることが目的であったとも指摘している。「同時に田園が十分に耕作されれば彼の収入も増加するわけであった。何となれば彼は収穫高の十分の一を取り立てたから」。ペイシストラトスが僭主に復帰してから、長期の安定した独裁政治を維持できたのは、「彼の性格が民主的で博愛であった」からで、「平素彼は万事法に従って治め、決して自己の利益を計ることがなかった」からであると、アリストテレスは評価している。

僭主政から民主政へ

 前527年に死去したペイシストラトスには二人の息子、ヒッパルコスとヒッピアスがいた。父の死後二人は権力を継承したが、ヒッパルコスは同性愛のもつれからアリストゲイトンという男に殺されてしまった(前514年)。残ったヒッピアスは残酷な暴君と化したため、前510年に蜂起したアテネ市民によって追放され、ペイシストラトスの僭主政は一代で終わり、アテネ市民は僭主の出現を防止する策の必要性を認識するに至った。そのために行われたのが前508年のクレイステネスの改革であり、アテネの民主政が完成の域に近づくこととなる。

Episode ペイシストラトスの二人の息子

 ペイシストラトスの死後、二人の息子、ヒッパルコスとヒッピアスが政治にあたった。ヒッピアスは年長で生まれつき政治家肌で思慮があったが、一方のヒッパルコスは遊び好きで好色でまた芸術を好んだ。アナクレオンやシモニデスその他の詩人らを招いたのもヒッパルコスであった。しかし、前514年、ヒッパルコスは同性愛の愛人アリストゲイトンとの感情のもつれから暗殺されてしまう。暗殺犯アリストゲイトンとその仲間ハルモニデスも捕らえられ拷問の上殺されたが、二人はアテネを独裁者から解放した英雄としてその彫像が作られた。
 弟を失ったヒッピアスは次第に暴君的になり、ついに前510年にアテネ市民によって追放された。ヒッピアスはアケメネス朝ペルシア帝国ダレイオス1世のもとに亡命し、アテネに復帰する機会を狙った。ついにその機会が訪れ、ペルシア戦争がはじまると、ヒッピアスはペルシア軍の先導役を務めることになった。マラトンの戦いでマラトンに上陸したペルシャ軍を案内したのが、アテネに復帰することをもくろんだヒッピウスだった。しかし戦いはポリス連合軍の勝利に終わり、ヒッピアスの野望は実現しなかった。
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アリストテレス
/村川堅太郎訳
『アテナイ人の国制』
1980 岩波文庫