印刷 | 通常画面に戻る |

ソロン/ソロンの改革

古代ギリシアのアテネでアルコンとなったソロンが行った改革。

前6世紀初めのアテネの政治家ソロンが行った、貴族と平民の対立を調停するための改革。前594~3年、40歳ぐらいで、対立していた貴族と平民双方から支持されて、アルコンになり、改革を行った。彼が行った改革をまとめると次のようになる。
  • 市民が負債のために没落し債務奴隷となることを防ぐため、負債を帳消にし(「重荷おろし」と言われた)、身体を抵当にして借財することを禁止(つまり借財のある市民を奴隷として売買することを禁止)し、さらに有力者が土地を独占することを禁止した。
  • また以前からあった市民の財産による4等級それぞれに権利と義務を定めた(財産政治)。
  • ソロンの改革で最も重要なことで、全市民が参加し、抽選で陪審員が決められる法廷において、役人を訴えることができるようにした。この民衆裁判はアテネの民主化の礎石となった。
  • 4部族からそれぞれ100人、合計400人の評議員から成る評議会を創設した。
 ソロンの改革は、貴族と平民のいずれかの側に立つのではなく、両者の対立への「調停者」の役割を担うものであった。またその調停のねらいは、貧富の差の拡大による市民の没落を防止し、ポリス民主政を維持するところにあった。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.118~60 などによる>

資料 ソロンの改革

 プルタルコスの英雄伝(『対比列伝』)にはソロンの人物とその改革についての評伝が載せられている。そこからいくつかの記事を拾い出してみよう。以下引用
(改革の背景) 当時貧民と富者の間の不均衡はいわば絶頂に達し、市(アテネ)は全く危険状態に陥っていた。正に僭主政治が出なければ市が安定を取り戻し騒動が静まることは不可能と思われたほどだった。というのは民衆がことごとく富者から借財をしていたから。彼らはあるいは収穫物の六分の一を収める条件で耕作して「六分一」とか労働者と呼ばれ、あるいは身体を抵当に借財をしたため債権者に引き立てられることがあり得て、ある者はその場所で奴隷となり、あるものは外国に売られていた。やむなく自分の子供を売ったり――これを禁ずる法はなかったから――債権者の苛酷に耐えかねて市から逃亡する者も多かった。そこではなはだ多数の屈強な人たちが一所に集まって互いに励まし合い、これ以上傍観することなく、誰か信頼すべき人物を首領に戴いて期限が過ぎても返済できない人々を解放し、土地の再分配を行い、国制を完全に変更しようと企てた。(p.118)
(ソロンの就任) そこでアテナイの人のうち最も思慮に富んだ人たちがソロンに眼を着けた。彼らは、ソロン独りが最も過ちが無く、また富者と不正をともにしないし、また貧者の窮境に陥ってもいないのを見て、彼に進んで公共の問題と取り組み、不和を停止してもらいたいと懇願した。・・・そして彼はフィロンプロトスの後を継ぐアルコンに、また同時に調停者と立法者の役に選ばれたが、富者たちは彼を裕福な人だとして、貧民どもは正直な人として彼を心から迎えたのであった。(p.119)
(その政治姿勢) 彼は僭主政は拒否したが、事態の処理に穏やかに過ぎたわけではない。立法に際しては有力者たちに柔らかく譲歩したりせず、自分を選んでくれた人々の機嫌を伺うこともなかった。しかしうまく行っているところは治療も核心も行わなかったが、それは“国家を完全にかき乱してしまって、再建と最良状態への調整を行なう力を失う”のを恐れたからであった。(p.121)
(重荷おろし) 後世の人々はアテナイ人が不愉快な物事を便利で人聞きのよい名で蔽って、上品に洒落て呼ぶと評する。たとえば娼婦を友達、貢税を醵出金、としの駐留軍を守備軍、監獄を部屋と呼んだりするごとくである。かような工夫は負債の帳消しを重荷おろしと呼んだソロンをもって嚆矢とするらしい。これが彼の最初に実行した政策であり、現存の借財を廃棄し、今後は身体を抵当にとっての貸金を禁ずると決定した。(p.122)
(改革に対する反応) 彼はどちらの側も満足させなかった。契約の破棄によって富者たちを悲しませたし、更に一層貧民たちの不満も買ったが、それは彼らの期待に反して彼が土地の再分配を実行せず、また、リュクルゴスのように生活において人々を絶対平等とはしなかったからであった。・・・しかし人々はやがて改革の利益に気付き、双方とも自分たち同士の非難をやめて公の犠牲に捧げたが、その犠牲を“重荷おろし”と命名した。(p.124-125)
<『プルタルコス英雄伝』上 ソロン 村川堅太郎訳 ちくま学芸文庫>

Episode ソロンの立法

 ソロンは立法権も付与されたので、殺人罪を除いてドラコンの立法をすべて廃止し、つぎつぎと新しい法律を作った。それが財産政治の制度であり、裁判への市民の参加(陪審員制)などであった。その他、ソロンの立法は遺言の規定、女性の服装、公共の井戸の使用法、暦の制定など、生活の全般にわたっていたため、沢山の人がソロンに言いがかりをつけにやってきた。辟易したソロンは“大きな事業において万人の気に入るのは難しい”という言葉を残し、海外に旅立ち、その間に市民たちが彼の法律に慣れることを期待した。しかし、その後のアテネでは人々はふたたび党争を始め、平野党(寡頭政を主張し貴族が支持)・海岸党(中庸の混合政体を主張)・山岳党(民主政を主張し平民が支持)の三派が争うようになった。

ペイシストラトスの僭主政に抵抗

 年老いたソロンがアテネに戻った時には山岳党の支持を受けたペイシストラトスが台頭していた。ペイシストラトスが自らの手で身体を傷つけたのち馬車で運ばれてアゴラに現れ、民衆を扇動して僭主になろうとしたとき、ただひとりその前に立ちふさがってそれを非難した。ペイシストラトスが権力を握ってからも、「ソロンはすでに大変な高齢で支持者もなかったが、それでも広場(アゴラ)に赴いて市民たちに向かって語り、彼らの無思慮と柔弱とを非難するとともに、自由を放棄せぬようにと鼓舞し激励した。このとき人々の記憶するあの有名な言葉を述べた。すなわち少し前に僭主政の樹立されるのを防ぐのは容易だったが、今では既に確立し成長しているのだから、これを打倒し撲滅するのは一層偉大で輝かしい仕事である、と説いたのである。」友人たちは亡命を勧めたが、それに従わず、詩作でアテナイ人を非難し続けた。<『プルタルコス英雄伝』上 ソロン 村川堅太郎訳 ちくま学芸文庫 p.144-145>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第1章2節 カ.民主政へのあゆみ
書籍案内

『プルタルコス英雄伝』上
村川堅太郎他訳
1996 ちくま学芸文庫