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スリランカ(1)/セイロン島

インド亜大陸の南の島。セイロン島とも言われた。上座部仏教の中心地、インド洋交易圏の中心地として栄えた。

 南インドの島嶼で、インド洋の海上交易に重要な役割を果たし、また肉桂(シナモン)などの香辛料の産地であった。アーリヤ系のシンハラ人が多数派であり、マウリヤ朝のアショカ王の時に伝えられた仏教(小乗仏教)を守っているが、次第に南インドからドラヴィダ系タミル人が移住し、彼らはヒンドゥー教を信奉しているので、宗教的対立を抱えている。16世紀にはポルトガル人が進出し、さらに1657年にはオランダが植民地支配を開始した。ナポレオン戦争中にイギリスが占領し、その後の1815年以来、イギリスの植民地としてセイロンと言われていたが、1948年に独立した。1972年には、国号を本来はスリランカに変更した。1970年代からシンハラ人とタミル人の民族対立から内戦が続き、2002年にようやく停戦に漕ぎ着けたが、まだ完全に鎮静していない。 → (2)ヨーロッパ勢力の到来と植民地化  (3)独立とスリランカへの国号変更 → (4)タミル人の分離運動
注意 スリランカとセイロン この地は長いイギリスの支配期間にはセイロンといわれたが、1972年に国号をスリランカに改称した。セイロンというのは、獅子の子孫という伝説のあるヴィジャヤ王(前5世紀)を最初の統治者とするのでシンハラドヴィーバ(獅子の国)とわれたのがアラビア人がセランディーブと訛り、ポルトガル人によってセイラーン、イギリス人がセイロンと言うようになったもの。従って、セイロン Ceylon と言うのは正しくなく、現在では歴史的にも現地の人の使うスリランカに言いかえている。ただし、植民地としてはセイロン、またはセイロン島ということもあるので注意すること。

シンハラ王国と小乗仏教

 島民はこのシンハラ王国を築いたアーリア系のシンハラ人が多数を占め、少数派にドラヴィダ系のタミル人が存在する。前3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王が王子マヒンダを派遣して仏教を伝え、スリランカの王も仏教に帰依し、以後この地は上座部仏教の中心地として栄える。前2世紀には南インドのタミル人勢力であるチョーラ朝とパーンディヤ朝の侵入を受ける。紀元後1世紀以降には、ローマ帝国と中国を結ぶインド洋交易圏での季節風貿易が活発になり、スリランカも中継貿易を行う港市国家として栄えた。

ヒンドゥー教徒の移住

 次第にヒンドゥー教を信仰するタミル人(ドラヴィダ系)の本土からの移住が増加し、多数派であり仏教徒であるシンハラ人(インドヨーロッパ語族のアーリア系)との対立が始まり、現在まで民族紛争が続いている。 → タミル人問題

(2)ヨーロッパ勢力の到来と植民地化

16世紀にポルトガル、ついでオランダが進出。ウィーン議定書によってイギリスの植民地となり、第2次世界大戦後に独立した。しかし、現在でも民族・宗教対立を抱えている。

ポルトガル人の進出

 ポルトガルのインド副王に任命されたフランシスコ・ダ・アルメイダの息子のロウレンソ=アルメイダは、1505年、インド最南端のコモリン岬近くのキロンに遠征、ポルトガル人商館員が殺害されたことへの報復として砲撃した。この高飛車な行動の後、ロウレンソはその年のうちにセイロンに達した。ポルトガル人は1510年までにセイロン島の支配を固め、この地の特産の香辛料である肉桂を獲得し、さらに東南アジアの香料諸島であるモルッカ諸島への中継地としてこの地を抑えた。その後150年間、この島はポルトガルの支配することとなった。

オランダの進出

 ポルトガルの支配が長く続いたが、ついで17世紀にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が進出、1602年には早くもオランダ艦隊が姿を現し、1656年にポルトガル人を駆逐して植民地とし、肉桂はオランダに大きな富をもたらした。

イギリスの支配

 オランダと競いながら海上帝国として支配権を広げてきたイギリスは、フランス革命の影響でネーデルラント連邦共和国が崩壊したのに乗じて、1796年にスリランカを占領し、ナポレオン戦争後の1815年のウィーン会議の結果であるウィーン議定書によってその領有を認められた。それ以後、イギリスはこの島をセイロン島と称して植民地として支配し、主として本国向けの(紅茶)のプランテーション栽培を行った。

(3)独立とスリランカへの国号変更

1948年、イギリス連邦の一員として独立する。1972年から国号を植民地時代のセイロンをやめ、本来のスリランカに戻した。

 1815年以来、スリランカはインドと同様にイギリス植民地支配が続き、セイロンといわれていた。ようやく第二次世界大戦後のインドの独立と連動して、1948年にイギリス連邦内の自治国として独立した。
 1954年にはインドのネルーの提唱で、南アジア5ヵ国首脳会議がスリランカの首都コロンボで開催された。このコロンボ会議での合意にもとづいて、翌年のインドネシア・バンドンでの第1回アジア・アフリカ会議が開催された。
 1956年からスリランカの首相を務めたバンダラナイケは世界初の女性首相として知られ、第三世界のリーダーの一人として活躍した。

国号をスリランカに改称

 1972年にイギリスから完全独立を果たし、国号もセイロンから本来の民族的呼称であるスリランカと改称した。古来、この地はシンハラ人の土地で、彼らは小乗仏教が伝わってからの仏教国であったが、次第にインド本土からヒンドゥー教徒であるタミル人が移住してきて、両者の間の宗教対立が政治的な対立となり、少数派のタミル人による分離独立運動が現在も続いている。
スリランカの民族と宗教 現在は人口比ではシンハラ人(72.9%)、タミル人(18.0%)、宗教人口では仏教徒(70.0%)、ヒンドゥ教徒(10.0%)、イスラム教徒(8.5%)、ローマン・カトリック教徒(11.3%)となっている(外務省ホームページによる)。首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。

(4)スリランカ タミル人の分離運動

1970年代からシンハラ人とタミル人の対立が激化。1983~02年、内戦が起こった。

タミル人問題

 独立後の1950年代、多数派で仏教徒であるシンハラ人を優遇する、シンハラ語の公用化や仏教保護政策が採られたことに対して、少数派でヒンドゥー教徒のタミル人が反発し、1970年代からタミル人の分離独立運動が始まった。 → タミル人問題

スリランカ内戦

 1983年に政府軍とタミル人の武装組織「タミール・イーラム解放の虎(LTTE)」の内戦が勃発、シンハラ人の政府はタミル語も公用語とするなど妥協を図ったがうまくいかず、戦闘が激化した。1987年にインドのラジブ=ガンディー首相が介入し、国際問題化した。
 2002年、両派は停戦に合意したが、翌年には停戦は延期され、06年に強硬派のラジャパクサ大統領がLTTEへの攻撃を開始し、内戦が再開され、LTTE側は北部を拠点にテロ活動を活発化させた。08年には正式に停戦を破棄、政府軍の攻勢が強まり、2009年5月、LTTE側は敗北宣言、内戦は一応終結した。
 しかし現在もなお、多数派民族のシンハラ人(仏教徒)とタミル人(ヒンドゥー教徒)の民族対立が続いている。