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スリランカ/セイロン島

インド亜大陸の南の島。かつてはセイロン島とも言われた。アーリヤ系シンハラ人が上座部仏教を受容、インド洋交易圏の中心地として栄えた。そこに南インドからヒンドゥー教とのドラヴィダ系タミル人が移住し、多数派シンハラ人による少数派タミル人との民族対立が起きている。


(1)スリランカ史の要点

スリランカ地図

スリランカ Yahoo Map

シンハラ王国と上座部仏教 アーリア系のシンハラ人がシンハラ王国を築いた。すでに前4世紀に北インドを統一していたマウリヤ朝では仏教が盛んになり、前240年ごろ、アショーカ王が王子マヒンダをスリランカに派遣して仏教を伝え、スリランカの王も仏教に帰依し、以後この地は上座部仏教の中心地として栄えた。
インド洋交易圏 南インドの島嶼であるこの島はインド洋の海上交易に重要な役割を果たし、また肉桂(シナモン)などの香辛料の産地であった。前2世紀には南インドのタミル人勢力であるチョーラ朝とパーンディヤ朝の侵入を受ける。紀元後1世紀以降には、ローマ帝国と中国を結ぶインド洋交易圏での季節風貿易が活発になり、中継貿易を行う港市国家として栄えた。
植民地支配 16世紀にはポルトガル人が進出し、さらに1657年にはオランダが植民地支配を開始した。ナポレオン戦争中にイギリスが占領し、その後の1815年以来、イギリスの植民地としてセイロンと言われていた。1946年にイギリス連邦内の共和国として独立したが、その後もしばらくセイロンと称していたが、1972年に国号をスリランカに改称した。
セイロンとスリランカ セイロンというのは、獅子の子孫という伝説のあるヴィジャヤ王(前5世紀)を最初の統治者とするのでシンハラドヴィーバ(獅子の国)とわれたのがアラビア人がセランディーブと訛り、ポルトガル人によってセイラーン、イギリス人がセイロンと言うようになったもの。従って、セイロン Ceylon と言うのは正しくなく、現在では歴史的にも現地の人の使うスリランカに言いかえている。ただし、植民地としてはセイロン、またはセイロン島ということもあるので注意すること。
民族紛争  商業活動が活発になるに従って、次第にヒンドゥー教を信仰するドラヴィダ系のタミル人が移住するようになり、先住民で多数派である仏教徒シンハラ人(インドヨーロッパ語族のアーリア系)との対立が始まった。1970年代からシンハラ人とタミル人の民族対立が深刻となり、1983年から内戦状態となった。2002年にようやく停戦に漕ぎ着けたが、翌年戦闘が再開され、さらに長期化した。政府軍が武力制圧を強め、2009年にタミル人側が敗北宣言を出し、25年以上にわたった内戦は終結した。しかしまだ完全に鎮静していない。 → タミル人問題

スリランカ(2) ヨーロッパ勢力の到来と植民地化

16世紀にポルトガル、ついでオランダが進出。ウィーン議定書によってイギリスの植民地となり、第2次世界大戦後に独立した。しかし、現在でも民族・宗教対立を抱えている。

ポルトガル人の進出

 ポルトガルのインド副王に任命されたフランシスコ・ダ・アルメイダの息子のロウレンソ=アルメイダは、1505年、インド最南端のコモリン岬近くのキロンに遠征、ポルトガル人商館員が殺害されたことへの報復として砲撃した。この高飛車な行動の後、ロウレンソはその年のうちにセイロンに達した。ポルトガル人は1510年までにセイロン島の支配を固め、この地の特産の香辛料である肉桂を獲得し、さらに東南アジアの香料諸島であるモルッカ諸島への中継地としてこの地を抑えた。その後150年間、この島はポルトガルの支配することとなった。

オランダの進出

 ポルトガルの支配が長く続いたが、ついで17世紀にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)が進出、1602年には早くもオランダ艦隊が姿を現し、1656年にポルトガル人を駆逐して植民地とし、肉桂はオランダに大きな富をもたらした。

イギリスの支配

 オランダと競いながら海上帝国として支配権を広げてきたイギリスは、フランス革命の影響でネーデルラント連邦共和国が崩壊したのに乗じて、1796年にスリランカを占領し、ナポレオン戦争後の1815年のウィーン会議の結果であるウィーン議定書によってその領有を認められた。それ以後、イギリスはこの島をセイロン島と称して植民地として支配し、主として本国向けの(紅茶)のプランテーション栽培を行った。

スリランカ(3) 独立と国号変更

1948年、イギリス連邦の一員として独立する。1972年から国号を植民地時代のセイロンをやめ、本来のスリランカに戻した。

 1815年以来、スリランカはインドと同様にイギリス植民地支配が続き、セイロンといわれていた。ようやく第二次世界大戦後のインドの独立と連動して、1948年にイギリス連邦内の自治国として独立した。
 1954年にはインドのネルーの提唱で、南アジア5ヵ国首脳会議がスリランカの首都コロンボで開催された。このコロンボ会議での合意にもとづいて、翌年のインドネシア・バンドンでの第1回アジア・アフリカ会議が開催された。
 1956年からスリランカの首相を務めたバンダラナイケ世界初の女性首相として知られ、第三世界のリーダーの一人として活躍した。

国号をスリランカに改称

 1972年にイギリスから完全独立を果たし、国号もセイロンから本来の民族的呼称であるスリランカと改称した。古来、この地はシンハラ人の土地で、彼らは小乗仏教が伝わってからの仏教国であったが、次第にインド本土からヒンドゥー教徒であるタミル人が移住してきて、両者の間の宗教対立が政治的な対立となり、少数派のタミル人による分離独立運動が現在も続いている。
スリランカの民族と宗教 現在は人口比ではシンハラ人(72.9%)、タミル人(18.0%)、宗教人口では仏教徒(70.0%)、ヒンドゥ教徒(10.0%)、イスラム教徒(8.5%)、ローマン・カトリック教徒(11.3%)となっている(外務省ホームページによる)。首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。

スリランカ(4) タミル人の分離運動

1970年代からシンハラ人とタミル人の対立が激化。1983年から内戦となり、2009年にようやく停戦となった。

タミル人問題

 独立後の1950年代、多数派で仏教徒であるシンハラ人を優遇する、シンハラ語の公用化や仏教保護政策が採られたことに対して、少数派でヒンドゥー教徒のタミル人が反発し、1970年代からタミル人の分離独立運動が始まった。 → タミル人問題

スリランカ内戦

 1983年に政府軍とタミル人の武装組織「タミール・イーラム解放の虎(LTTE)」の内戦が勃発、シンハラ人の政府はタミル語も公用語とするなど妥協を図ったがうまくいかず、戦闘が激化した。1987年にインドのラジブ=ガンディー首相が介入し、国際問題化した。反発したLTTEによってラジブ=ガンディーが暗殺されるという事態となった。
 2002年、ノルウェーの仲介で両派は停戦に合意したが、翌年には停戦は延期され、06年に強硬派のマヒンダ・ラジャパクサ大統領がLTTEへの攻撃を開始し、内戦がさらに激化し、LTTE側は北部を拠点にテロ活動を活発化させた。2008年には正式に停戦が破棄され、政府軍の攻勢が強まり、2009年5月、LTTE側は敗北宣言、26年にわたった内戦は一応終結した。
内戦終結後の混迷 しかし現在もなお、多数派民族のシンハラ人(仏教徒)とタミル人(ヒンドゥー教徒)の民族対立が続いており、今度は反政府活動を制圧した多数派シンハラ人による、タミル人やムスリムなど少数派への差別的な行動が問題とされている。さらに2019年4月にはスリランカ国内で、イスラーム過激派による同時多発、自爆テロ事件が発生、この時はキリスト教会が襲撃されるという複雑な宗教対立が起こっている。この事件はイスラーム国系の過激派の犯行とされている。

スリランカ(5) 内戦終結後の混迷

2009年に内戦を終結させたマヒンダ・ラージャパクサ大統領は次第に強権を振るうようになり、その一族支配が続く。経済破綻が深刻となり、2022年7月に大規模な民衆デモが起こり、弟の大統領が追放された。

ラージャパクサ一族支配

 2005年に大統領となったマヒンダ・ラージャパクサは、仏教徒である多数派シンハラ人の圧倒的支持をもとに、少数派であるヒンドゥー教徒のタミル人の武装組織「タミル人の虎」にたいする攻勢を強め、2009年、武力鎮圧に成功した。2015年に大統領選挙に敗れていったん下野したが、2019年に起こったイスラーム過激派連続テロ事件が起きると、強硬なテロ対策を主張した弟のゴータバヤ・ラージャパクサが大統領選で当選、マヒンダはそのもとで首相となった。
 このマヒンダとゴータバヤのラージャパクサ兄弟は権力を握ると一族を要職に登用、一族支配を強めていった。その政策は大幅な減税を打ち出す一方で国際空港建設やスタジアム建設などを外国債で実施するなど、国民の人気を得ようとしたものであったが、次第に財政難は深刻となっていった。2020年から世界的なコロナ禍で観光による外貨収入が激減、さらに2022年のロシアのウクライナ侵攻によって石油・ガス・食料価格が高騰したため経済が破綻、その犠牲となった国民の困窮が極まっていった。

NewS スリランカ大統領の逃亡

 2022年1月、ゴータバヤ・ラージャパクサ大統領は関係の深かった中国に対し、債務返済の猶予を嘆願したが事態は好転せず、4月から抗議デモが多発し、非常事態宣言が出された。5月、衝突で死者が出たことを受け、大統領の兄のマヒンダ・ラージャパクサ首相(実際の最高実力者)はついに辞任、急遽交代したたウィクラマシンハ新首相は7月5日、国家の破産を宣言した。外貨不足で生活必需品の輸入が滞り、物価高騰に苦しんでいた国民の怒りは頂点に達した。7月9日、コロンボで大規模な民衆デモが発生、13日にはついに大統領官邸にデモ隊が押し入り、ゴータバヤ・ラージャパクサ大統領は避難し、国外に逃亡、大統領官邸を占拠したデモ隊は大統領専用ブールで泳いだり、食堂では食料をあさるなど暴れ回り、歓声を上げた。
 前大統領はまずモルディブに逃れ、そこからシンガポールに向かった。その後、さらにタイに向かったという。スリランカでは首相のウィクラマシンハが大統領代行となり、事態の収拾に当たった。大統領代行はただちに国際通貨基金(IMF)に支援を要請、9月1日にIMFはスリランカの経済再建策、中国、インド、日本など外国債の整理を条件として29億ドルの金融支援を表明、スリランカは経済再建と安定の回復に取り組むこととなった。  → NHK国際ニュースナビ スリランカで何が?
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