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孫権

後漢末の混乱期に父孫堅、兄孫策の勢力を引き継いで江南の呉に権力を樹立し、華北の曹操、四川の劉備と覇を競い、222年に呉王、229年に呉の皇帝となって三国の一角をおさえた。『三国志演義』の英雄の一人。

 三国時代の初代皇帝となった。長江下流の家柄の低い土豪の家に生まれた父の孫堅が、黄巾の乱から始まった後漢末期の混乱に乗じて次第に頭角を現し、群雄の一人となった。一時は、反乱を起こした董卓を洛陽から追い出し、中央政界でも知られる存在となったが、歴戦のなかで、陣没した。その軍団の指揮権を継いだ長男の孫策は、同い年の周瑜と組んで活躍し、浙江省を中心とした江南地方を支配するまでになった。父と同じく中央を目指し、後漢の献帝を擁立しようとしたが、200年、その途中で刺客に殺された。孫権はその孫策の弟で、わずか19歳、江南の地盤を引きつき、群雄の一人として華北の曹操や劉備と対抗することとなった。その孫権を支えたのが、兄の友人であった軍師、周瑜であった。 → 後漢の滅亡

赤壁の戦い

 華北で後漢の皇帝献帝を擁した曹操は、次に南下して孫権の呉の地を得ようとした。たびたび使節を送り、降伏を勧告、孫権の部下にも降伏を受け入れて地方政権として認めて貰おうとの主張もあったが、孫権は、軍師周瑜が必勝の戦術があるとの説を使用して、抗戦に決定した。同じように曹操に圧迫されていた劉備の軍師、諸葛孔明も同様に劉備・孫権の同盟を提唱したので、両者は協力して曹操にあたることとなった。
 208年、曹操の大軍を迎え撃った赤壁の戦いは、呉の周瑜の作戦、老将の黄蓋の活躍で孫権の大勝に終わった。劉備の協力があったものの、呉軍はわずか2万の兵力で、80万の魏軍に対し、火船で奇襲して魏の水軍を焼き払うという奇襲作戦を成功させたのだった。その結果、曹操の天下統一の思惑は頓挫し、天下三分の体制となった。

劉備との抗争

 劉備は拠点を荊州(長江中流の現在の武漢周辺)に得ようとして、孫権と交渉したがまとまらず、実力で兵を進めた。両者の関係は緊張したが、209年には孫権が妹を劉備に嫁がせて関係を修復した。劉備に荊州を与えることに反対していた周瑜は210年に病没、孫権は荊州を劉備に与えることに同意した。劉備はさらに211年、益州(現在の四川省)に入り新たな拠点としてを建てた。
 孫権は212年に、長江下流の建業(現在の南京)を拠点として建設した。赤壁の戦いの敗北後、国内の充実に努めていた曹操は212年に魏公、216年には魏国王となり、帝位をうかがうようになった。また漢中をめぐって曹操と劉備は再び鋭く対立することとなり、曹操は孫権に同盟関係を働きかけた。孫権は劉備の蜀が勢力を拡大することを警戒して曹操の求めに応じ、219年、劉備の盟友関羽を欺して捕らえ、惨殺した。

呉の建国

 220年、曹操が死去すると、その子曹丕は後漢の献帝から禅譲を受け、の文帝として即位すると、翌221年には蜀の劉備も同じく皇帝を称した。劉備は関羽の仇を討つとして遠征のため出撃、それを受けて魏の文帝は孫権を王に封じた。翌222年、孫権の呉軍は劉備の蜀軍を破って撃退、新たに年号「黄武」を建てた。このことは、晋王朝設立の宣言を意味し、この年から「呉国」が始まるとされている。ただし、孫権が正式に皇帝として即位したのは、229年のことである。
 孫権は252年に死去、末子の孫亮が即位したが、呉では豪族が力をふるうようになって、急速に衰え、280年に司馬炎(武帝)のによって滅ぼされる。
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