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北虜南倭

中国の15世紀中頃に始まり、16世紀に激しくなった、北方からの遊牧民(モンゴル系)の侵攻と、南方海域での海賊(倭寇)の活動のことで、明王朝の脅威となり、その滅亡を早めた。

 ほくりょなんわ。の統治の後半、特に、16世紀に明にとって大きな脅威となった外部勢力の侵入をあわせて北虜南倭という。この両面からの外患は、明にとって頭の痛いことであり、その犠牲も大きく、対策には莫大な費用がかかり、財政を圧迫した。ひいては明の衰退の原因となっていった。
北虜  北虜とは、明の北方からその領土を脅かしたモンゴル系遊牧民の侵攻を意味する。明に圧迫されてモンゴル高原に退けられたモンゴル人の北元は1388年に洪武帝によって滅ぼされたが、靖難の役の混乱に乗じて勢力を回復したので、永楽帝は5度にわたってモンゴルを親征した。それでも完全に制圧することができず、1449年にはオイラト部のエセン=ハンが明軍を破り、正統帝を捕虜とする土木の変が起こった。明が長城の改修を行ったのはこの時である。その後もタタール部のダヤン=ハンが有力となり、16世紀になるとアルタン=ハンに率いられてしばしば北辺に侵攻するようになった。とくにこの16世紀のモンゴル人の侵攻は、東南海岸部の倭寇の侵攻と共に明にとって脅威となり、北虜といわれた。
南倭 南倭とは、倭寇を意味するが、16世紀の倭寇は後期倭寇といわれ、日本人だけでなく、朝鮮人、中国人も加えた、東シナ海全域で活動した海賊集団であると同時に広く交易活動を行う、私貿易集団であった。後期倭寇の活動が活発になったことは、明が行っていた勘合貿易が行われなくなり、明を中心とした朝貢体制が維持できなくなってきたことを意味する。
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7章1節 エ.朝貢世界の動揺