印刷 | 通常画面に戻る |

可汗/カガン/ハガン

鮮卑、柔然、突厥など遊牧国家で用いられた王号。モンゴルのハン位に継承される。

 漢字表記では可汗であるが、カガンあるいはカガンというのが本来の発音。騎馬遊牧民の作った遊牧国家の首長は、匈奴や鮮卑、氐、羌などでは単于が用いられていたが、柔然はこの可汗を用いるようになり、突厥にも継承された。

可汗のはじまり

 従来は上述のように可汗の称の始まりは柔然とされていたが、最近では鮮卑が建国した北魏において、遊牧諸部族が北魏の君主に対して「可汗」の称号を使っている石碑が発見されたため、可汗の称号の始まりは鮮卑からであると訂正されるようになった。
 鮮卑が単于を使わなくなった事情としては、五胡十六国の時代に成立した多くの胡漢融合政権のもとで、単于を皇太子の称号として扱うようになったことに対して、モンゴル高原に残った遊牧部族は単于の称号を嫌い,新たに可汗の称号が生み出されたということがあった。そのため、北魏に従属した諸部族は北魏の皇帝を,「皇帝」でも「単于」でもなく「可汗」で呼んだと考えられ、可汗の表記の初の使用例となる北魏時代の石碑が発見されている。<この項、代々木ゼミナール教材研究センター世界史の越田氏のご教示による>

可汗からハンへ

 鮮卑はモンゴル高原で活動した騎馬遊牧民で、その中の拓跋氏が有力となり、386年に建国したのち、南下して中国北部、華北に入り、五胡十六国の動乱を抑えて439年に北魏を建国した。モンゴル高原の遊牧諸部族は北魏の君主を「可汗」と称するようになった。  鮮卑が華北に移った後、モンゴル高原で有力となったのがモンゴル系の柔然であった。柔然では君主を可汗と呼ぶことが定着した。柔然はモンゴル高原から東トルキスタンに勢力を伸ばしたが、449年には北魏の太武帝と戦って敗れ、後退した。
 6世紀に入ると、それまで柔然に従属していたトルコ系の突厥が自立し、552年に柔然を滅ぼした。突厥は君主の称号として可汗を継承した。突厥はモンゴル高原から中央アジアにいたる大遊牧帝国を建設したが、中国の隋に圧迫されたこともあって、583年に東西に分裂したが、東西の突厥はそれぞれ可汗を称した。その後、東突厥が唐に従属することになったときに、北方遊牧諸民族は唐の太宗天可汗の称号を贈った。
 東突厥はその後682年に復興し、突厥第二帝国(可汗国ともいう)を建て、唐とも交渉をもって突厥文字を作るなど繁栄期を迎えたが、744年にトルコ系のウイグルに滅ぼされた。ウイグルも君主は可汗を称した。ウイグルは安史の乱で唐を支援するなど、有力であったが、9世紀に衰え、キルギスに滅ぼされた。トルコ系国家は東トルキスタンに西ウイグル王国、カスピ海北岸にハザールが残った。ハザールの君主もカガンを称し、ハザール=カガン国と言われた。
 10世紀にはその東部からモンゴル系と思われる契丹が台頭、916年には耶律阿保機が契丹国を建ててカーンを称した。その後、中国風の国号遼を採用、その君主も中国風に皇帝とされるようになった。遼が中国の宋と争ううちに、東方でツングース系の女真が力を付け、1115年に遼を破ってを建国、遼の王族の耶律大石は西方に逃れて西遼(カラ=キタイ)を建国した。
 モンゴル草原で契丹に服していた多くの遊牧部族中から出現したテムジンが、1206年に部族を統合し、部族長会議であるクリルタイでハン位に推戴されチンギス=ハンとして即位した。そのもとで大遊牧国家「モンゴル帝国」が発展するが、底での称号ハン(ハーン)も可汗に由来する。1271年にフビライ=ハンは国号を元とそて、皇帝を称するようになる。
印 刷
印刷画面へ